個人的な意見として、中国科学院の優れた点を述べる。

圧倒的なエネルギーと自信

 中国科学院を含め、現在の中国の研究開発に共通しているのは、エネルギーと自信に満ちあふれていることである。知識人にとって悪夢のような文化大革命が終了した後、鄧小平が開始した経済政策の成功による圧倒的な経済発展を経験してきたのが現在の中国科学院の幹部や研究者であり、これが彼らのエネルギーと自信につながっていると思われる。中国の政官界、産業界など社会のあらゆる分野で、経済発展の輝きが失われておらず、中国科学院や同院所属の研究者も例外ではない。近年経済成長率が鈍化しつつあるといわれているが、それでも欧米や日本と比較すると高い水準にある。社会的には様々な矛盾が蓄積されつつあるという予感はするものの、日々の研究活動、教育活動に励む限りにおいては、昨日より今日の方があらゆる面で発展しているのが判り、また今日より明日の方がもっと良くなるという希望が持てる、これが優れた点である。

明確な目標

 急激な経済成長を受け、エネルギーと自信に溢れた中国のトップ研究機関であるので、中国科学院の目指す目標は極めて明確である。中国科学院の各研究所や大学の目標は、米国のカリフォルニア大学システムやハーバード大学、英国のケンブリッジ大学、フランス国立科学研究センター(CNRS)、ドイツのマックス・プランク協会などと並び、世界トップレベル研究機関になり、その地位にふさわしい優れた成果を挙げることである。科学論文などの数量的データではその領域に近づいているが、科学的・学問的な価値やイノベーション創出という点で疑問を呈する声があることも事実である。しかし中国科学院は、そのような疑問にも全くたじろぐ気配は無い。

豊富な研究資金

 中国の経済発展は20世紀末に始まり、21世紀に入って加速した。ここ数年は成長率が鈍化し、中国指導部自らが経済状況を「ニューノーマル(新常態)」と呼ぶ状況にあるが、それでも政府発表の成長率が6%を越えている。このような経済の拡大発展を受け、中国科学院を含めた中国の大学や研究機関における研究開発費の増加は、急激かつ膨大である。

 中国ならではの法律として、科学技術推進を国家の重要事項と定めている「科学技術進歩法」がある。1993年に法律として発効し、2008年に改定されているが、その中に「科学技術投資の増加率は国家財政収入の増加率を上回る」との規定がある。現時点での中国全体の研究資金は米国に次いで第2位となっている。ちなみに日本は長い間米国を追いかけていたが、現在は中国に次いで第3位に低下している。

 中国では、米国の国立科学財団(NSF)や国立衛生研究所(NIH)のグラント・システムを取り入れた競争的な研究資金制度が拡大強化されている。その代表的なものが、国家自然科学基金委員会(NSFC)が配分する予算である。既に述べたように、このNSFCは中国科学院の院士により提唱され、中国科学院が先行的なプログラムを実施することにより設置されたものである。中国の研究開発費の増大が、このような競争的な資金も拡大させてきたため、研究者全体に万遍なく配分されるのではなく、力のある有名研究者に絞って重点的に配分されてきている。このため現時点においては、中国の有力研究者は日本の有力研究者よりはるかに資金力に優れている。中国科学院の研究者は、総数も多いが世界的なレベルに達している人も多く、これらの研究者が競争的資金を多く獲得してきている。

 また、中国では産官学連携が非常に進んでいることも、研究開発資金の強化につながっている。日本では近年ようやく産官学連携が叫ばれ、連携促進のための施策も多く実行されるようになってきた。中国では状況は全く違っている。国防関係の国営企業を別として、中国では一般企業はそれ程研究開発能力を有していない。このため、技術開発を自ら行うのではなく、外国から技術導入するか、中国科学院や大学などの研究機関に頼る場合が多い。

圧倒的なマンパワー

 中国科学院はマンパワーの点でも圧倒的である。2021年末の職員数は約7万名で、このうち正規の研究開発職員は約5.7万名に達する。世界的に見てフランス国立科学研究センター(CNRS)の職員が全体で約2.6万名、米国の国立衛生研究所(NIH)が約1.8万名である。日本では、理化学研究所が約3千名、東京大学は約8千名の職員を擁しているが、中国科学院に比べるべくもない。

 元々中国は13億人の民を抱え世界最大の人口国であるが、経済発展前の2000年以前は科学技術人材王国ではなかった。最大の理由は、科学技術を推進する経済的な余裕がなく、研究開発のための人材を雇う資金が乏しかったため、研究者のポストが圧倒的に少なかった。また、1966年に始まり1976年まで続いた文化大革命の後遺症から、しかるべき教育なり研究経験がある人が極めて少なかった。しかし、この時期にあっても、華僑などの子孫や私費での留学などを通じて外国で教育を受け、外国で活躍する人材は相当数に上っていたと考えられる。

 中国の経済発展が進行するに従って状況が大きく変化し、2000年代に入り急激に中国の研究者数が増大を始める。2000年で70万人前後と日本と同等であった研究者数が、2017年現在で約175万人を数え、米国の約140万人、日本の約70万人を抜いて世界一となっている。また、大学進学率も増加し、米国等に留学して博士号を取得する人も増えていることから、単に量だけではなく質的にも大幅にグレードアップされている。中国科学院は、北京大学や清華大学などと並び中国屈指の研究機関であるので、2000年以降に拡大強化された優秀な人材源から豊富に採用できていると考えられる。

 中国の研究所や大学における研究開発のマンパワーを考える際、そこで修士号や博士号の取得を目指す大学院生の存在を忘れてはならない。中国の理系大学院生が恵まれているのは、大学院の授業料はほとんどの院生で実質無料であり、これに加えて所属する研究室から生活費が支給される。生活費を支給された大学院生は、必死に実験等に励む。中国科学院も例外ではない。既に第五章で見たように中国科学院は、中国科学技術大学や中国科学院大学だけでなく、傘下の研究所においても大学院生を教育できるシステムを採用している。研究生と呼ばれるこれらの大学院生の数は現在約4.5万名に達しており、その半分が博士課程の学生である。したがって、正規の研究者約5.7万名に加えこの4.5万名が研究チームを構成するため、名目のおよそ倍のマンパワーとなる。さらにこれらの研究生は、全体に万遍なく配置されるのではなく重要なプログラムに重点配分されるため、既に第四章で紹介したように瀋陽材料科学国家実験室の場合、正規のスタッフが140名に対し、およそ3倍の410名の大学院生が研究に参加している。

 またここ20年から30年の間に、中国と米国等の科学技術先進国との間で形成された人材循環システムにも注意を払うべきである。中国では、トップレベルの学生は北京大学や清華大学、さらには中国科学院傘下の中国科学技術大学などに入学し、必死で勉学に励む。学部を卒業した後、優秀な成績を修めた学生は米国の有名大学などに留学する。また国内で博士号を取得した学生もやはり、米国などにポスドク修行に出かける。このように優秀な学生が米国などを目指すのは、中国科学院の研究所の幹部研究員や北京大学や清華大学等の有力大学の教授になろうとすると、米国などでの留学や研究経験が不可欠であり、中国国内に留まって研究を続けても高いレベルのポストに就くことが困難であるためである。個々の研究者にとっては大変負担の多いシステムであろうが、異文化に接することにより研究者としての資質が鍛えられる、欧米にいる研究者コミュニティと連携をすることができる、共同研究などが可能となり国際共著論文作成が増加するなどのメリットがあり、中国の科学技術レベルの向上という意味では大変重要である。実際中国科学院の傘下の研究所や大学の幹部は、ほとんど留学や外国での研究経験を有しており、世界の研究レベルを十分に認識したうえで、自分たちはトップレベルを走っているとの強い自信を持っている。

世界最新鋭の施設・装置

 中国科学院傘下の研究所のトップレベル研究室には、欧米や日本の研究室と同等あるいはそれ以上の実験機器、分析機器、測定機器などがずらりと並んでいる。最新鋭の研究機器を思い切って投入できる理由として、欧米や日本と比べ半周後れで研究開発が始まったため、古い研究機器やしがらみがなく、思い切って世界最先端のものが導入できる点がある。また、中国自前の技術や製品へのこだわりがないため、国際的に最新鋭の研究機器を新規に導入することを躊躇させない。さらに、最近の研究費の増大に伴い、大型装置や共通先端装置などの建設も順調に進んでいる。

 本件について、最近日本の研究者から聞いたエピソードを紹介したい。近年のライフサイエンスの研究では、たんぱく質の構造解析が重要な位置を占めている。最近まで、たんぱく質の構造解析は結晶を作り解析していたが、近年では電子顕微鏡の技術が発展し、新しい電子顕微鏡が開発された。これは「クライオ電子顕微鏡」と呼ばれ、水を含む生きた状態のたんぱく質を観察することが出来る画期的なものである。ただ、この電子顕微鏡は一台数億円もする非常に高価な装置であるため、日本にもあるがそれ程多くはない。ところが、日本の研究者が中国科学院の研究室を訪問したところ、このクライオ電子顕微鏡が2台も置かれており、さらにもう1台が梱包されたまま設置を待っている状況であったという。中国のトップレベルの研究室に、如何に資金力があるかの例証であろう。

選択と集中

 このように圧倒的な研究資金とマンパワー、最新鋭の施設・装置を上手く活かす戦術が、「選択と集中」である。中国は科学技術の後発国であるため、欧米の科学技術先進国に早く追いつくため、この選択と集中の戦略をとっている。世界で話題となった研究分野に、豊富な研究資金とマンパワーを集中投下し、短期間で世界のトップレベルまで引き上げるという戦略であり、確実にかつ短期的に世界トップクラスのレベルまで引き上げることが出来る。

 一例を挙げると、2008年、東京工業大学の細野秀雄教授は、新しい鉄系超伝導物質を発見したと発表した。これは細野教授のオリジナルな研究であるが、発表直後より中国科学院物理研究所の研究者らが、ものすごい勢いで関連する実験を行い、論文をネイチャーやサイエンスに続々と発表した。中国では研究者が多く層が厚いため、このように方向のはっきりした研究では、世界的に十分な存在感を発揮できることを証明したのである。研究費や人材が豊富にあるという中国の特性や数値目標を掲げると頑張れるという中国人の習性をうまく利用しているともいえよう。同じことが、iPS細胞研究やゲノム編集の研究でもいえ、人海戦術的な局面では欧米でも中国の研究者に一目置いている。

信賞必罰

 日本の研究者は他の職種と同様に年功序列と横並びによる処遇が中心であり、ノーベル賞クラスの成果を出した研究者であっても、ほとんど研究論文を出していない研究者と報酬が違わない場合が多い。中国はこれとは全く違っている。

中国の研究者はネイチャー、サイエンス、セルといった世界一流の科学誌に研究論文が掲載された場合、所属する研究所や大学から報奨金(一説には10万元、約170万円)がもらえるという話を聞く。論文投稿のモチベーションを高くしようとしているのであろう。

 これとは別に、出口の近い研究の場合には、産官連携により成功したプロジェクトで利益を得た企業から得た報奨金を、参加研究者にボーナスで配分するという話しもある。ただこのボーナスが我々の想定するような額ではなく、多い場合には数百万円に達することもあるという。

 成果の出せない研究者に対する必罰もはっきりしている。深圳市にある中国科学院深圳先進技術研究院の所長から聞いた話によれば、所属の研究者をABCの3ランクで評価し、Aは20%、Bは70%、Cは10%と枠を設定し、Cの内の下半分の5%となった研究者は強制的に退職に追い込まれる。毎年5%というと、単純計算で5年のうちに4分の1、10年で全研究者の半分が退職に追い込まれ、入れ替わる。大変厳しい評価システムである。

 深圳先進技術研究院でなくても、中国科学院の業績評価は厳しいことには定評があり、これが論文数、引用数などで中国科学院を世界一流の研究機関に押し上げたと考えられる。しかし、最近ではこの厳しい評価が十分に科学的な価値と結びついていないとの反省がなされており、これまでの数量中心の評価システムを修正して、ピアレビュー的な評価などを導入する試みがなされている。