南巡講話

 第二次天安門事件の後、欧米諸国は中国の改革政策に大きな疑念を持ち、当時の中国経済発展の頼みの綱であった外資導入が思うように進まなかった。鄧小平は1992年1月から2月にかけて武漢、深圳、珠海、上海などを視察し、「南巡講話」を発表した。この南巡講話により党内論争は改革派の勝利となり、海外からの投資が再度活発となって、中国が劇的な成長に向けて歩みだすこととなった。

改革開放政策の加速

 鄧小平の「南巡講話」を受けて、中国では計画経済から社会主義市場経済への転換が求められたが、中国科学院においても、1987年より第4代院長に就任していた周光召のイニシアティブの下、人員削減及び機構の簡素化、業務姿勢の改善などを目的とした本部機能の抜本的な改革が進められた。これに伴い1993年には、局レベルの部署をそれまでの17から12に再編された。

 新たな世紀にわたり活躍する学術の中堅人材やリーダーを育成するため、中国科学院は1994年1月「百人計画」を公表した。この計画の詳細は第五章で述べるが、2000年までの各学術分野のニーズに基づき、国内外から優れた資質と実績を有する若手を百名程度公募し、優秀な学術リーダーへの育成を図るプロジェクトである。

 1997年5月中国科学院は、学術分野や社会価値の動向に基づき各研究所の位置づけを明確化し、科学研究基地型の研究所約80か所程度と、地域経済の振興や企業・市場に目を向けた技術開発型の研究所約30か所に、3年程度を目途に再編する方針を決定した。科学研究基地型の研究所80か所のうち、20~30か所を基礎研究主体、20~25か所を資源・環境科学研究主体、30~40か所をハイテク開発主体とした。