改革開放政策

 文革終了後に実権を掌握した鄧小平は、改革開放政策を推進した。中国科学院における文革の混乱を収拾した方毅は、1981年に院長を退任し中央政界に復帰した。後任の第3代院長には、方毅氏と同じく福建省アモイ生まれの化学者である盧嘉錫が就任した。

 1983年11月国務院は、中国科学院と中国科学技術大学を博士号及び修士号を授与しうる教育機関として認可した。博士号を授与する学科、専攻は中国科学院全体で125あり、全国総数の15%を占め、また218の学科、専攻が修士号の授与権を得た。

 1985年4月、中国科学院は所長責任制を決定し、所長が研究所の業務と事務を指導することとした。傘下の各研究所の共産党委員会は主に思想政治業務を担当し、所長は業務方針や政策及びその他の重要な問題を決定し、所長が中間管理職や事務系幹部を任免する際にはあらかじめ党委員会の意見を求めることとした。1987年に各研究所で全面的に所長責任制が実施された。

 1985年7月、院全体の研究経費の管理方法として、基金制と契約制が導入されることとなった。基礎研究及び応用研究における基礎的な業務に対しては、基金制による支援が採られた。具体的には、中国科学院自らが設立した基金で助成するとともに、各研究所が国家自然科学基金を積極的に申請することを奨励した。応用研究課題や、一部の重大プロジェクト及び技術的難題の解決を図る研究プロジェクトについては、契約制による支援手法が採られた。さらに、大型プロジェクトや重大設備及び図書、情報等の科学技術サービス部門については、引き続き専用の予算を配分するという方法が採られた。

第二次天安門事件

 中国の政情も比較的安定し、中国科学院でも研究機能を再建する時代がしばらく続いた。1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、「ペレストロイカ」により民主化を進めた。この影響を受け、当時の中国共産党総書記の胡耀邦が、1986年5月に「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進した。これに対して党内の長老グループは、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は中国共産党による一党支配を揺るがすものであるとして、1987年1月、胡耀邦を辞任させた。1989年4月、胡耀邦が心筋梗塞で死去すると、民主化推進派の学生たちによる追悼集会やデモが行われ、さらに天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキが開始された。これらの動きにより首都機能が麻痺したため、5月に北京市内で戒厳令が敷かれ、6月3日には鎮圧のために人民解放軍が投入された。

 この第二次天安門事件は、鄧小平による改革政策の大きな流れの中で発生したものであり、中国の国際的な立場が大きく損なわれたが、文化大革命と違い中国科学院の研究活動に大きな影響はなかった。これは文化大革命の場合、中国科学院が組織的混乱に巻き込まれたのに対し、天安門事件の場合には、研究者が個人の意思で参加したケースが想定されるものの組織的な活動ではなく、場所も同院の研究所が立地する中関村などから少し離れた天安門広場が中心になったことによる。