1975年初頭、周恩来の病状が悪化し、鄧小平が共産党や国務院の日常的業務を実質的に指揮することになった。鄧は軍隊の整理から着手し、整理対象を次第に全国の各セクターに広げ、文革時代の誤りを是正していった。同年7月、共産党中央は胡耀邦らを中国科学院に送り込み、同院への指導を強化した。胡耀邦らは北京地区の各研究所を訪問し、各種の座談会開催や調査活動を実施して状況把握に努め、科学研究を軌道に乗せるよう促した。秩序の早期回復のため、8月、中国科学院の科学者が参加して「百家争鳴」座談会が開催された。科学者らは座談会で、文革が研究活動に与えたダメージを念頭に、理論研究と基礎的活動を重視すべきとの提案を行った。半導体研究所の王守武は、中国で生産される大規模集積回路の歩留まりが日本を大きく下回っている原因を分析し、基礎研究が手薄なため半導体に存在する問題が十分解明できていないためだと指摘した。力学研究所の呉仲華は、理論研究の成果を生産に応用することが重要であるとして、中国科学院は基礎研究の担い手として新技術、新手法の模索を担当するべきであり、国防・工業部門が行う型式開発とは棲み分けるべきだと指摘した。

 1975年12月、中国科学院の四人組に同調する一派が、二度にわたって毛沢東に書簡を送り、胡耀邦らの活動を非難した。1976年初頭、胡耀邦らは停職処分となり、調査を受けることになった。同年2月、首都体育館で「万人批判大会」が開催された。中国科学院の多数の職員は四人組の横暴に不満を募らせており、この大会が始まった時、職員らは出席して批判を受けた側の幹部(胡耀邦は病気のため不参加)に熱烈な拍手を送り、四人組同調者が批判の発言を始めると、多くの人が次々と席を立って会場を後にした。

 1976年4月、同年1月に死去した周恩来の追悼のために天安門広場にささげられた花輪が北京市に撤去されたことに激昂したデモ隊と鎮圧部隊が衝突し、鎮圧された事件(いわゆる第一次天安門事件)が発生した。

 1976年10月に四人組が失脚し、翌年1月、方毅が中国科学院の副院長に任命され、以降方毅が文革後の中国科学院再建を指導することとなった。方毅は科学研究関係の人ではなく、抗日戦争や国共内戦を戦い抜き、新中国建国後は財政経済分野で活躍した政治家・軍人である。郭沫若初代院長は1978年6月に死去し、1979年7月方毅が第2代中国科学院院長に任命された。