文革被害者の名誉回復

 1977年6月、副院長の方毅を議長とする院内の会議が開かれた。方毅は、「中国は一部の重要な新技術分野において、世界の先端に大きく水を開けられてしまった。基礎理論研究の多くの分野が停滞状態にある。国民経済や国防建設において、多くの重要な科学技術問題が長きにわたり解決されないままである。科学技術の人材構成がいびつである。科学研究設備や実験の手法がかなり遅れている。アカデミックな姿勢が破壊されてしまった」との認識を示し、早急に科学研究活動の活性化を図るべく努力するよう呼びかけた。また、文革中に取り調べを受けた人員について、再調査の上、名誉回復と復帰を促した。

組織の再整理

 1978年3月、北京で全国科学大会が開催され、出席した方毅は「中国科学院、国務院の各部門及び重点高等教育機関は力を結集し、てこ入れが急がれる基礎科学及び新興科学技術に関する研究機関を復帰させ、強化し、さらに新設していく必要がある」と指摘し、中央及び各地方、各部門の支援の下、中国科学院が文革中に地方政府などに切り離された研究機関の復帰及び新設を大規模に行うことを宣言した。具体的には、共同指揮体制により地方政府に主導権が移っていた研究機関や完全に地方政府や民間に移管された研究機関を、中国科学院の傘下に復帰させたり中国科学院主導の共同指揮体制へ変更したりした。さらに、急務であった基礎科学及び新興技術に関する研究機関を新設した。

 傘下の研究機関は、1977年の65か所から1978年末までに110か所に増えた。また全体の常勤職員数は1977年の5.4万名から8万名近くに増えた。しかし、拡大が急速すぎたため、管理の面で混乱が生じたほか、人員編成も合理性に欠けていると判断した中国科学院の中枢は、1979年5月これ以上の拡大に慎重な態度を表明し、以降、選択的な接収と再編を行っていくこととなる。

 中国科学院の発足直後の1955年より、傘下の各研究所には有識者で構成される「学術委員会」が設置され、各研究所のアカデミックな活動の基本的な方向を議論し、所長に進言していた。しかし、文革の期間中、この学術委員会の活動は完全に停止していた。文革終了後の1977年、中国科学院は本部及び傘下の各研究所の学術委員会の再設置を決定し、物理研究所が先頭を切って設置を果たした。

社会科学院の独立

 中国科学院は1949年の発足以来、傘下に自然科学系の研究所だけでなく人文・社会科学系の研究所を有しており、哲学、経済、考古、歴史、近代史、語言、文学、外国文学、民族、宗教、法学、世界歴史、世界経済、自然科学史、情報の15の社会科学系の研究所が中国科学院内に置かれ、全国の社会科学研究の中心であった。文革終了後の1977年5月、双方が分離されることとなり、中国社会科学院が設立された。中国社会科学院の初代院長には、政治家であり文人であった胡喬木が就任した。

 国際交流の復活

 文革中はほとんど行われていなかった、米国や欧州諸国などとの研究交流が徐々に再開されていった。中国科学院とドイツのマックス・プランク協会は、文革中の1974年に科学技術協力協定を締結しており、これを基礎として1976年から1979年にかけ中国科学院はドイツに約150名の研究者や大学院生を派遣した。さらに1978年9月、中国科学院はユーゴスラビア科学芸術院委員会、スウェーデン王立工学アカデミー、英国王立協会、フランス国家科学研究センターと相次いで科学協力協定を締結し、欧州との科学技術協力の規模を大幅に拡大した。

 1985年までに、中国科学院は約50の国と地域の研究機関、大学及び国際組織と約70の協定、覚書及び議事録に調印した。協力・交流の形式は、一般的な視察から長期的な共同研究へと発展し、研究室の共同設立や、新技術・新製品・新設備の開発、中国での国際会議及び研修活動の共同開催等を行うようになった。

 1978年3月の全国科学大会で、海外での先進な科学技術の習得を目的とした研修・留学者の派遣拡大という方針が発表された。この方針を受けて、中国科学院は傘下の各機関より優秀者を選抜し、業務研修、外国語訓練といった準備を進め、1978年9月から1982年末にかけて計2,454名を海外に派遣した。

 これとは別に、1979年9月、米国籍の中国系物理学者でノーベル物理学賞受賞者である李政道(Lee Tsung-Dao)コロンビア大学教授が、最高指導者である鄧小平宛に書簡を発出し、「多数の研究者を海外で学ばせるだけでなく、大学院生を米国へ留学させるのはどうか」と提起した。鄧小平は10月に返信し、「李政道教授の意見は正しい。方毅中国科学院院長に関連部門を召集させて討議したい」と述べた。翌年5月、国務院教育部と中国科学院は合同で、「学生を推薦して渡米物理専攻大学院生に参加させることに関する通知」を発表し、中国で物理学を学ぶ大学院生を募集し、米国の有名大学で博士課程を履修させることとなった。これが、「中米渡米物理専攻大学院生共同募集(CUSPEA)」事業である。1980年に米国の61か所の大学がCUSPEAに参加し、1981年には64か所に拡大した。このプロジェクトは1988年まで実施され、計918名の物理専攻大学院生が米国で学んだ。

 優れた人材の海外研修・留学は、ハイレベルな科学技術人材の養成や、重点研究分野及び新興学科の発展及び国際的な学術交流の促進等において、積極的な役割を果たした。