1. 知識人の迫害
文化大革命は既成の権威打破を強調しており、教育や科学技術で高いレベルにある知識人そのものが批判の対象となり、反革命派として迫害された。
その迫害ぶりを、中国の最高研究機関である中国科学院を例として見たい。1968年7月、中国科学院に置かれた革命委員会は、「階級隊列の純潔化」を全面的に展開すると宣言した。この純潔化運動の中で、多くの中国科学院幹部が取り調べを受け、不法に監禁されたり、残酷な迫害を受けたり、拷問で自白を強要されたりした。
中国科学院の公式資料によると、当時中国科学院の北京地区における職員の総数は9,279名で、このうち取り調べを受けた人は全体の9.5%に当たる881名に上り、さらに革命に対して敵対的性質があると判定されたのは102名で、北京地区の総職員数の1.1%、取り調べ対象者の11.5%に上った。1968年末までに、北京地区の中国科学院本部の幹部7名も全て「打倒の対象」となり、局長クラス71名および課長クラス192名のうち、それぞれ59名(83%)、99名(52%)が「打倒」又は「重点的取り調べ」の対象となった。文革の十年間、中国科学院の職員全体のうち家財を没収された家庭は1,909戸、迫害を受けて死亡した人は229名に上った。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
・李暁華編『中国科学院六十年(1949-2009)』科学出版社 2009年 ・百度HP 『无产阶级文化大革命』
2. 高考の停止(1966年)
文化大革命開始後の1966年7月、中国共産党中央委員会と国務院は、「全国普通高等学校招生入学考試(通称高考)」の停止を通知した。このため、1966年から1969年までの4年間、中国本土の全ての高等教育機関は学生の入学を完全に停止し、高等教育は麻痺状態になった。
その後、毛沢東が「大学は運営を継続すべきである」とし、「実務経験のある労働者および農民から新規の学生を選び、学校で数年学んだ後に生産業務に戻るべきである」と述べたことにより、各大学は1971年に新入生の登録を再開することとし、高等学校を卒業して2年以上働いた労働者、農民、兵士を募集することとした。1970年から1976年にかけて、全国の295の大学で合計94万人の労働者、農民、兵士を募集したが、新入生の選定は共産党や文革の革命委員会などの推薦を主体としたため、学生の質に大きなばらつきが出て十分な教育効果を達成できなかった。
高考の復活は、文革の終了まで待たねばならなかった。
(参考資料)
・百度HP 『无产阶级文化大革命』
3. 施設や装置の破壊
文化大革命初期の1966年から67年頃までは、革命のイニシアティブを巡って内乱状態となった。あらゆる施設で武力衝突が繰り返され、大学や研究機関も例外ではなかった。教育や研究を行うための施設や設備などが損壊し、機材物品なども破壊された。
暴力的な状況にあったのは文革初期であるが、その後においても自己批判の強要とそれに係る暴力行為が長く続き、とても建物や校舎を修復して授業や研究を再開するという雰囲気にならなかった。
清華大学を例にとって見ると、文革初めての紅衛兵組織が同大学の附属高校で設立されるなど同大学は文革の発端に深く関与しており、文革初期には武力衝突が度々発生した。なかでも、同大学の学生であった蒯大富(かいだいふ)率いる井崗山兵団の乱暴振りは凄まじいものであった。1968年、清華大学のキャンパスを舞台に行われた100日戦争と呼ばれる武力衝突の際には戦車も出動し、機関銃乱射から身を守るため建物の窓にはベニヤ板や布団が貼り付けられ、ロケットやピストルまで学内で内作された。戦闘の結果、18人が死亡、1,100人以上が負傷し、直接の経済損失は1,000万元を超えたという。清華大学ほど極端ではないにしても、他の大学や研究所でも同様の破壊が進められた。
(参考資料)
・ 百度HP 『无产阶级文化大革命』
4. 下放(上山下郷運動)
文化大革命が開始されてから、通常の大学入試や雇用は行われず、多くの青少年が都市において無職のまま紅衛兵運動に没頭し、学生の派閥の分裂や争いが起こったため、毛沢東は紅衛兵運動を停止させ、「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」とした。そして、都市と農村の格差撤廃と都市部の就職難を改善させる措置として、1968年からおよそ10年間に1,600万人を超える青年が、都市から内陸部の農村に送られ労働に従事した。これを下放(上山下郷運動)と呼んでいる。行き先は雲南省、貴州省、湖南省、内モンゴル自治区、黒竜江省など、中国のなかでも辺境に位置し、経済格差が都市部と開いた地方であった。
青少年の中には、「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に下放に応じたものもあったが、知識人を思想的に改造し肉体労働の意義を確認するという考え方を前提に、強制的に下放させられた教員や研究者も多くいた。中国科学院に例をとると、1969年3月および5月に、中国科学院北京地区の多数の研究者が北京を離れ、寧夏回族自治区陶楽県、湖北省潜江県に下放され、労働に従事することとなった。下放対象となる人物は政治的な「誤り」があり、業務上に「発展の見込み」がなく、活動上「いなくても構わない」とされる人物が選定された。下放場所の選定も懲罰的であって、寧夏回族自治区陶楽県は砂漠に面し塩害が深刻で作物の生産性は低く人影もまれな地であったし、湖北省潜江県は風土病の多発地域であった。
また、下放を免れた研究者についても、思想改造の試練が続いた。文化大革命は中国科学院の活動そのものを「修正主義の科学研究路線」として批判対象とし、「工場に向き合い、農村に向き合い、学生に向き合う」ことをスローガンとするよう求めた。1970年4月、北京地区の研究者は中国科学院での研究活動をやめて、1,811名が工場や農村へ向かい、190名が33の中学校と8つの小学校へ向かった。本来地理学を究めている研究者が政治を教えたり、植物学の研究者が工場で三極管を製造したり、微生物の研究者が粉末金属精錬に従事したり、遺伝学を研究者がブレーカの開発に従事したり、動物学の研究者が自動車部品を生産したり、という惨状となった。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
・李暁華編『中国科学院六十年(1949-2009)』科学出版社 2009年
・百度HP 『上山下乡』
5. 研究機関などの改編
文化大革命は既存の体制や活動を打倒の対象としていたので、科学技術や学術・教育関係の組織運営も混迷を極めた。
中国科学院を例にとって見ると、最初に動きがあったのは国防関係の研究をしていた部署である。文革の初期、科学研究活動が深刻な影響を受けることを危惧した周恩来らは、1966年12月、「東方紅一号」衛星プロジェクトを所管する研究所や工廠などを人民解放軍の管理下に置いた。さらに1967年に入り、国防に関する科学研究の組織化を進め、18の研究院を設立することとなった。リソースを集中させると同時に、文革の混乱の時期において国防部門は比較的安定を保っていたことから、国防に関する科学研究事業や科学技術人材を保護するという目的もあった。しかし、国防系の科学研究部門もほどなく政治運動に巻き込まれ、これら研究所も守ることができなかった。調整の結果、実力のある研究所が中国科学院から切り離され、あらゆる学術・科学技術分野をカバーしていた中国科学院の総合的な優位性は失われてしまった。
1970年6月、中国科学院の革命委員会は共産党中央の了承を得て、傘下の48研究機関を地方へ移転させ、30機関を地方政府と中国科学院の二重指導体制下におき、5機関を産業部門に移管させた。その結果、中国科学院は北京地区の18研究機関を残すのみとなり、中国の科学技術事業に重大な損害をもたらした。また同1970年、国家科学技術委員会の業務はほとんど停止し、中国科学院に吸収されてしまった。
このように文革中は分裂状態に置かれた傘下の研究所も、文革終了後は徐々に中国科学院に復帰していく。また、国家科学技術委員会は分離・独立した。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
・李暁華編『中国科学院六十年(1949-2009)』科学出版社 2009年
6. 両弾一星の完成(1970年)
文革では既存の教育や研究組織が批判と破壊の対象となったため、周恩来首相は両弾一星プロジェクトを担当する研究所の資材や人員を、革命派の比較的手が出しにくい人民解放軍に移転させた。しかし、国防系の科学研究部門もほどなく政治運動に巻き込まれ、これら研究所でも文革の混乱は免れ得なかった。
また周恩来首相は、紅衛兵らの暴力から知識人らを守るため、文革初期の1966年8月に「保護すべき幹部リスト:一份应予保护的干部名单」を作成し、毛沢東の同意を得て保護に努めた。しかし、全てを守ることができたわけではなく、例えば有名な例では核兵器の開発を指揮していた銭三強も、反動学術権威というレッテルが貼られて迫害を受けた後、妻でやはり物理学者であった何沢慧(かたくけい)とともに陝西省に下放されて農作業に従事した。
このように、両弾一星の開発にも文革の影響はあったが、周恩来首相の度重なる庇護の下で着実に進められ、1967年6月には、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の水爆実験に成功した。
その後、両弾一星の一星の部分、つまり人工衛星の打ち上げについても着実に進められた。人類初の人工衛星は1957年にソ連が打ち上げたスプートニク1号であり、4か月後には米国がエクスプローラー1号が打ち上げていた。さらに1965年にはフランスがアルジェリアのアマギール射場からアステリックスの打ち上げに成功した。中国は、ソ連からの技術をベースとして独自開発を加えたミサイル技術を発展させ、1970年4月に長征1号ロケットにより「東方紅1号」の打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げ国であり、これにより両弾一星は完成した。この成功により中国は、軍事技術を中心としたミサイルやロケット開発から、長征ロケットシリーズをベースとした民生用の宇宙開発にも力を入れていくことになった。
(参考資料)
・百度HP 『两弹一星』
7. 科学技術工作についての諸問題」の公表(1975年)
林彪のクーデターが失敗した後、1973年には鄧小平が国務院副首相として復活した。1975年初頭、周恩来首相の病状が悪化し、鄧小平副首相が共産党や国務院の日常的業務を実質的に指揮することになった。鄧副首相は人民解放軍の整理から着手し、整理対象を科学技術や教育に拡げていった。同年7月、鄧副首相は胡耀邦を中国科学院に送り込み、同院への指導を強化した。
胡耀邦は、下放などから職場復帰しつつあった中国科学院の幹部と協議し、1975年8月に「科学技術工作についての諸問題:关于科学技术工作的几个问题」を中国共産党中央と国務院に提出した。この文書では、科学研究について次の点を強調した。
- 科学技術活動には強い政治的リーダーシップとともに、実務上の的確で具体的なリーダーシップが必要である。
- 科学技術は生産力であり、科学研究を経済活動の先頭に立たせるべきである。
- 科学研究も社会実践であり、下放などの生産労働によって代替することはできない。
- 外国に対する崇拝や盲目的な模倣には反対するが、国際協力は重要である。
- 経済活動についての応用や実践も重要であるが、科学の理論や基礎研究も軽視すべきではない。
- 自然科学の学術的問題に関する論争は、学術討論や科学研究によって解決されるものであり、行政命令によって特定の学派を支持したり抑えこんだりしてはならない。
その後、鄧小平が開催した国務院会議で概ね了承されたが、四人組を中心とした革命派に妨害され、文革中この文書の考え方が実施されることはなかった。
(参考資料)
・時政新聞HP 『浩气长存——改革岁月中的胡耀邦(1975)』 2015年