- 1. 1. 中国科学院の設置(1949年)
- 2. 2. 欧米で活躍中の科学者の帰国(1949年~)
- 3. 3. ソ連との協力(1950年~)
- 4. 4. 専門家招待処の設置(1950年)
- 5. 5. 院系調整(1952年)
- 6. 6. 高考の開始(1952年)
- 7. 7. 中国科学院学部委員(現院士)制度の開始(1955年)
- 8. 8. 周恩来の講話「科学に向かって邁進」(1956年)
- 9. 9. 科学計画委員会の設置(1956年)
- 10. 10. 「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」の公表(1956年)
- 11. 11. 両弾一星政策の開始(1956年)
- 12. 12. 「自然科学研究機関の当面の活動に関する十四条の意見(草案)」の公表(1961年)
- 13. 13. 「科学技術発展計画綱要(1963年~1972年)」の公表(1963年)
1. 中国科学院の設置(1949年)
1949年3月、中国共産党が北京に進駐した際、新中国建国後における科学技術・学術研究の重要性に鑑み、速やかに最高学術機関を設立することとした。新たに設立する機関は、全国の自然科学および社会科学分野の研究を行い、科学・教育・生産の緊密な連携を目指すものと位置付けられた。建国直後の10月19日に中国科学院が設置され、郭沫若が中国科学院の院長に、陳伯達、李四光、陶孟和、竺可楨(じくかてい)の4名が副院長に就任した。
中国科学院が発足後に直ちに着手したのが、これまでの中国の科学技術・学術研究の遺産ともいえる中央研究院と北平研究院の施設や人員の接収である。蒋介石が台湾に逃れた際、同行した中央研究院や北平研究院の研究者などにより資料や装置が持ち去られたものもあり、これを充当する必要があった。設立まもない中国科学院は、接収した機関と人員を基に新たな研究所の設立・編成を進め、新生中国のための科学技術・学術研究の基盤を確立していった。
また中国科学院は、全国の自然科学系人材についての調査を行い、数学、物理学、化学、生物学、天文学、地学、心理学の専門家合計865名をリストアップした。そのうち171名が海外に在住していた。中国科学院は、この中から200名を学術顧問として招請した。これは、海外にいる有力な科学者が中国に帰国するきっかけにもなった。さらに中国科学院は、学術用語の翻訳および統一が科学研究や学術交流、高等教育用の教材作成、科学啓発活動を進めるうえで喫緊の課題として、200名余りの科学者を作業委員として招いた。1951年初頭までに、動植物、化学物質、天文学の3分野で統一用語が策定された。
その後、文化大革命時には困難に直面したが、中国科学院が率先して行った人材政策、ファンディングなどが国全体の先駆けや規範になるなど、中国の科学技術に大きな影響を与え続けている。中国科学院は、現在104の研究所を傘下にもち、約7万人の職員を擁する世界最大の国立研究機関となっている。その予算総額も2016年時点で約518億元(約8,400億円)と、国立研究機関としては世界最大である。また、論文数やハイレベル論文数の量・質でも、世界を代表する研究機関である。
なお、中国科学院は研究実施機関であると共に、大学を有する教育機関、さらには優れた研究者の顕彰機関でもある。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
2. 欧米で活躍中の科学者の帰国(1949年~)
中国政府は建国後、海外に在住する優れた科学者に対し帰国と新国家建設への参加に向けた働きかけを行った。中国科学院の学術顧問への任命などもあって、多くの科学者が万難を排して帰国し、国内の大学や研究所で勤務することとなった。
1957年までの期間に、建国前の留学生の半数以上に当たる約3千名の科学者が帰国したとされる。その中には、華羅庚(からこう、数学)、銭学森(力学)、銭三強(原子核物理学)、銭偉長(力学)、黄昆(固体物理)、葉篤正(気象学)、徐光宪(じょこうせん、化学)、王大珩(おうだいこう、応用光学)、屠守锷(としゅがく、ロケット工学)、任新民(ロケット工学)、彭桓武(ほうこうぶ、理論物理学)、張文裕(高エネルギー物理学)などの著名な科学者が含まれている。海外科学者の帰国により、大学や研究所の指導力が強化され、多くの新興分野や、これまで研究者が不在あるいは研究が遅れていた分野で、空白の解消や充実が図られた。既存の科学者と新たに帰国した科学者が団結したことにより、国内の科学技術レベルが短期間のうちに急ピッチで上昇し、国家建設や科学の発展に寄与した。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
3. ソ連との協力(1950年~)
1949年の建国後、中国は米ソ冷戦という世界情勢の中でソ連を始めとする社会主義国陣営の一員になった。1945年にソ連は蒋介石率いる国民党政府と中ソ友好同盟条約を締結していたが、これを破棄して新たな中ソ条約を締結することが新中国の重要な課題であった。毛沢東とスターリンとの会談や周恩来とミコヤンとの交渉などを経て、1950年2月にモスクワ・クレムリンにおいて「中ソ友好同盟相互援助条約」の調印式が催された。
この条約によって中国は、ソ連のジェット戦闘機や弾道ミサイルなど近代的な軍備を手に入れることとなった。また、科学技術、教育などあらゆる分野において「ソ連学習」が進められ、高等教育機関の改革や教育カリキュラムの編成などでソ連モデルが取り入れられた。
この時期に中国の発展に最も大きく貢献したのは、ソ連との人的交流によるものであった。ソ連から哲学、歴史学、経済学、法学、生命科学など多分野の著名学者が中国に訪問し、先端的な学術思想などをもたらした。一方、郭沫若中国科学院院長をはじめとする多くの学者たちもソ連を訪問し学術交流を行った。1953年には、銭三強中国科学院副院長を団長とする代表団が3か月をかけてソ連各地を訪問した。代表団は、ソ連科学アカデミー傘下の研究所など98の研究機関や11の大学、さらには工場、鉱山、コルホーズ(集団農場)、博物館、展覧会などを視察した。
1950年4月、ソ連政府が中国の要請を受けて「中国の教育水準を高めるため、ソ連の教授・講師を中国に派遣し、就業させること」を認可したことで、1950年から1957年までに、合計750名のソ連専門家が中国の大学等の教官となった。一方中国政府は、1951年から留学生を、1956年から大学教員などをソ連に派遣した。分野や専攻は、原子核物理学、低温物理学、触媒化学、金属工学、物理採鉱学などで、派遣期間は1年から2年間だった。1950年から1960年まで、中国の外国への出国者9,294人の約9割はソ連への留学生と教員研修生であり、最も多かったのは1956年の2,085人であったという。これらソ連への留学生は、帰国後に中国科学院の各研究所や有力大学の主力研究者となった。
しかしその後、1960年からの中ソ関係悪化によりその数は激減し、1966年には全員帰国することになった。
4. 専門家招待処の設置(1950年)
ソ連の専門家の受入れ業務をスムーズに行うため、政府は1950年1月に「専門家招待処」を設置した。これは中国最初の外国専門家向けのサービス管理機構となった。
その後、中ソ対立による中ソ協力の中断や文化大革命などの影響により、業務が縮小したり中断したりしたが、文革終了後の1978年9月に業務を再開した。鄧小平は、「近代化建設において我々は経験も知識もないため、外国の知恵と専門家の助けが必要である」として、海外人材を積極的に招聘したが、その任に当たったのがこの部局であり、1986年には、国務院弁公庁直属組織の「国家外国専門家局:国家外国专家局」と改名されている。
国家外国専門家局は、1993年には人事部傘下に、2008年には人力資源保障・社会保障部傘下に置かれた後、2018年に科学技術部の一部局となり、2021年現在「外国専門家服務司:外国专家服務司」となっている。これは、科学技術人材を重要視している中国政府の意思と考えられる。
(参考資料)
・科学技術部のHP http://www.most.gov.cn/
5. 院系調整(1952年)
中国では清末から中華民国の時代に近代的な大学制度が導入され、京師大学堂(現北京大学)、清華学堂(現清華大学)などが開設された。さらに、欧米の教会も燕京大学(北京)などを開設しており、1930年頃までに39の大学、17の学院、23の専門学校が存在し、英国や米国の高等教育をモデルとしていた。
新中国の建国後、経済建設に直ちに役立つ技術者が不足していたため、ソ連のような近代的な産業体系の短期間における構築を目指して、大学教育の役割を学問の追求から専門技術者の育成に変更することとなった。1950年6月に開催された第1回全国高等教育大会で、国家建設および経済成長のため、従来の総合大学による教養教育に代わり単科大学や専門大学による専門人材の育成を中心とする高等教育機関の改革の方針が打ち出された。1952年から1953年年末にかけての2年間で、中国史上最大規模の大学再編が行われた。これを「院系調整」と呼んでいる。
院系調整を経て、大学の数は211校から185校に減少し、全ての教会大学、私立大学は国公立大学に吸収された。一方、多くの国立総合大学は単科大学に分割され、1952年前後の大学数を比較すると、総合大学の数は55校から13校になった。また近代産業の構築のためエンジニアの育成を中心とする工学部が強化された。
北京大学と清華大学を例に見ると、北京大学の工学部は清華大学と天津大学に移管された。逆に、清華大学の理学部、法学部、文学部は北京大学に移管された。この再編により、清華大学は工学系の単科大学に近い形となり、北京大学は工学部を有しない文科系の色彩が強い大学となった。なお、理学部はほとんど北京大学に再編されたため、北京大学も清華大学も理学と工学が分離された形となった。
その後政府は、1990年代に後述する211プロジェクトや985プロジェクトなどの大学重点化政策を開始し、院系調整による偏りを直そうとしてきた。この結果現時点では、院系調整の影響はほとんど解消されている。
(参考資料)
・百度百科HP『中国高等院校1952年院系调整』
6. 高考の開始(1952年)
古代からの中国の人材選抜制度として有名なものは「科挙」であり、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。科挙を開始したのは随の文帝(楊堅)で、家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度として、世界的に見ても画期的な制度であった。しかし、近代に至り欧米列強が中国侵略を開始すると、硬直的なシステムとなっていた科挙に合格した官僚は時代遅れの存在となり、清末の1904年に科挙は廃止された。清末から中華民国の時代に、中国国内では国立大学や欧米の教会による大学などが設立されていったが、科挙のような全国一律の試験はなく、それぞれの大学で新入生の選抜が続いた。
新中国建国後の1952年に、全ての大学が参加し全国一律で新入生選抜を行う「全国普通高等学校招生入学考試(通称は高考)」が開始された。その後文化大革命の時代には、高考はエリートを選抜するものとして糾弾の対象となり、1966年に中断された。文革終了後の1977年に復活し、2008年には「普通高等学校招生全国統一考試」と改称された(通称は高考のまま)。
中国の大学は欧米と同じく9月入学のため、毎年6月に試験が行われる。日本と違い各大学や専攻ごとの試験は原則行われず、この高考の試験結果のみで合否が判断される。
(参考資料)
・JST中国総合研究・さくらサイエンスセンター『中国の科学技術の政策変遷と発展経緯(PDF)』2019年
7. 中国科学院学部委員(現院士)制度の開始(1955年)
中国科学院は、設立直後に専門委員を選定し、多くの重要な意思決定に先立ち意見聴取していた。1955年6月にこの専門委員制度を強化する形で、学術分野ごとに「学部(Academic Divisions)」を設置し、そこに関連の研究者を集めて委員会を立ち上げて傘下の研究所の指導を行う方針を決定し、学部委員199名を指名した。この学部委員は英語ではAcademicianであり、英国、フランス、ソ連などの学術分野における最高の栄誉称号を模したものである。
設置当初には、物理学数学化学部、生物学地学部、技術科学部、哲学社会科学部の4つの学部が置かれた。各学部の主任は次の通り。
- 物理学数学化学部主任:呉有訓
- 生物学地学部主任:竺可楨
- 技術科学部主任:厳済慈
- 哲学社会科学部主任:郭沫若
文化大革命期間中には、中国科学院の活動が大きな影響を受け、この学部の活動も停止した。文革終了後に学部の活動を再開し、1994年1月に学部委員の名称を「中国科学院院士」に改称した。2020年3月現在で、中国科学院院士数は826名である。各学部別に見ると、数理物理学学部155名、化学部132名、生命科学・医学学部152名、地学部138名、情報技術科学部99名、技術科学部150名となっており、それ以外に外国籍の院士が107名である。
中国科学院院士は、後に分化した中国工程院の院士とともに科学技術分野の最高の栄誉称号であり、院士になることが理工系の研究者の大きな目標となっている。また、これらの院士同士での議論を経て、科学技術の重要なテーマについて政府に意見を述べる立場にある。
(参考資料)
・中国科学院HP http://www.cas.cn/
8. 周恩来の講話「科学に向かって邁進」(1956年)
1956年1月、中国共産党中央委員会は知識人に関する会議を開催した。周恩来首相はこの会議に出席し、中国の知識人と科学技術情勢に関して講話を行った。周恩来は中国の知識人の現状を分析し、知識人の社会主義建設に対する役割を肯定し、知識人のほとんどがすでに労働者階級の一部分となっていると述べた。また、科学は中国の国防、経済、文化の決定的な要素であると強調し、世界科学の急速な発展は中国をはるか後ろに置きざりにしているとして、今後中国は世界の先進的な科学のレベルに追い付かなければならず、そのために科学技術に関する新たな中期計画の策定を目指すべきであるとし、「科学に向かって邁進(向科学進軍)」というスローガンを示した。
毛沢東主席も会議の最終日に演説し、共産党全党が科学知識を学ぶために一生懸命働き、知識人と団結し、世界の科学の高度なレベルに迅速に追いつくよう努力することを求めた。
(参考資料)
・中国共産党新聞網記事 「周恩来牵头制定科学规划 充分动员和发挥知识分子力量」 徐祖哲著 2016年12月20日
9. 科学計画委員会の設置(1956年)
新中国建国以来、優れた科学者を多数擁する中国科学院が科学技術の基本的な方向を示してきたが、1954年の国務院改革により中国科学院は政策担当機関ではなく研究実施機関と位置づけられた。1956年3月に国務院は科学技術政策の担当機関の不在を埋めるため、陳毅副首相を主任とする科学計画委員会(科学规划委員会)と国家技術委員会を設置し、前者の科学計画委員会に最初の中長期計画である科学技術発展遠景計画綱要の策定を担当させた。
1958年に国務院は、科学計画委員会と国家技術委員会を統合して国家科学技術委員会を設置し、聂荣臻(じょうえいしん)副首相を主任に兼務させた。これが現在の科学技術部の前身である。
文化大革命勃発後、国家科学技術委員会の業務はほとんど停止し、1970年には中国科学院に吸収された。文革後の1977年9月に中国科学院から分離され、方毅副首相兼中国科学院副院長(後に院長に昇格)が主任を兼務した。同委員会は、1998年に現在の科学技術部に名称が変更された。
(参考資料)
・科学技術部HP http://www.most.gov.cn/
10. 「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」の公表(1956年)
建国後、中国ではソ連の計画経済に倣い、1953年から「第一次五か年計画:第一个五年计划(1953年~1957年)」を開始し、農業や産業システムの構築を目指した。これにより、緩やかに国家経済が回復し、社会主義的工業化が進行していった。1956年1月、中国共産党中央により知識人に関する会議が開催され、社会主義的工業化を加速するため科学技術に関する新たな中期計画の策定を目指すこととなった。同年3月、国務院は科学計画委員会を設置し、数百人の専門家や学者を動員して、最初の中長期的科学技術計画の策定に着手した。同年12月、中国共産党中央委員会と国務院が「科学技術発展遠景計画綱要:科学技术发展远景规划纲要(1956年~1967年)」を公表した。
この綱要は本文と4つの参考資料によって構成され、本文は序言、1956年から1967年の重要科学技術の任務、任務の重点部分、基礎科学の発展方向、科学研究活動の体制、科学研究機関の設置、科学技術幹部の確保と育成、国際協力から構成されている。
より具体的には、13の分野から57の重要な科学技術の任務、616の中心的な課題を取り上げ、さらに総合的に12の重点任務を挙げている。また、中国科学院、産業部門、大学などの高等教育機関の3つの間の業務分担と協力の原則を定め、人材確保と育成方針を定めている。また科学研究機関の設置について一般的な原則を定め、プロジェクト、人材、基地、体制を統括する計画を定めた。
13の分野とは、ⅰ)自然条件と資源、ⅱ)鉱業と冶金、ⅲ)燃料と電力、ⅳ)機械製造、ⅴ)化学産業、ⅵ)土木建設、ⅶ)輸送と通信、ⅷ)新技術、ⅸ)国防、ⅹ)農業、ⅺ)林業と畜産、ⅻ)医学と健康、ⅹⅲ)機器の測定と規格であった。12の重要なプロジェクトには、原子力の平和的利用、ラジオエレクトロニクスの新しい技術、ジェット技術、生産プロセスの自動化、精密機器などが含まれている。さらに基礎科学分野の重要性を強調し、数学、力学、天文学、物理学、化学、生物学、地質学、地理学などの8つの分野が挙げられた。
この綱要の策定と実施は、中国の科学技術の発展に対して重要な役割を果たしただけではなく、科学研究機関の設置と配置、大学などの高等教育機関の学科と専門の調整、科学技術人材の育成、科学技術管理の体系と方法、科学技術の体制の形成に大きな役割を果たした。
(参考資料)
・科学技術部HP 『1956-1967年科学技术发展远景规划纲要(修正草案)』
11. 両弾一星政策の開始(1956年)
建国直後の1950年6月に朝鮮戦争が始まり、同年12月中国は義勇軍を派遣して戦争に加わった。膠着状態に陥った戦線を打開するため、国連軍のマッカーサー総司令官が中国への核兵器を含む攻撃を主張したことを毛沢東らの中国共産党幹部は厳しく受け止め、第二次世界大戦の戦勝国としての立場を確保することをも念頭に、核兵器開発を決断することになった。中国が頼ったのは、1949年に原爆実験を1954年に水爆実験を成功させていたソ連であった。中国は、中ソ友好同盟相互援助条約や中ソ科学技術協力協定などに基づき、ソ連から原爆開発の協力を受ける準備を整えていった。
一方、第二次世界大戦後の新たな軍事技術として注目されたのは、ミサイルとロケット技術である。ナチスのV2ロケットの技術や資材を獲得したソ連は、コロリョフらの努力によりミサイルやロケットの技術開発を進め、1948年にミサイルを、1957年8月には大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7ロケットを、そして同年10月には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、米国を圧倒した。中国はこれらの状況を見て、核兵器の開発だけではなくミサイルやロケットの開発を同時に行うこととし、これについてもソ連の協力を仰ぐとともに、米国から帰国した銭学森らにミサイルとロケットおよび人工衛星の開発を指示した。
この二つの流れが一体となったのが「両弾一星」戦略であり、「両弾」は核兵器(原爆・水爆)とミサイル、「一星」は人工衛星を指す。
すでに述べた1956年の科学技術発展遠景計画綱要が根拠となって、国家一丸となっての両弾一星戦略が開始された。1956年4月、人民解放軍を管轄する中国共産党中央軍事委員会に航空工業委員会を設置し、ミサイル開発を担当させた。同年10月、中央軍事委員会に第五研究院を設置し、米国から帰国した銭学森を院長に任命した。同年11月、国務院に第3機械工業部を設立し、原子力開発を担当させた。1958年には、中央軍事委員会は航空工業委員会を改編して国防科学技術委員会を設置し、国務院の副総理で国家科学技術委員会主任の聂荣臻元帥に主任を兼務させた。これにより、人民解放軍と国務院が力を合わせ国内の研究機構と科学者を動員する形で、両弾一星戦略を推進していくこととなった。
最初に成果を挙げたのがミサイル開発であり、ソ連から供与されたR-2ミサイルをリバースエンジニアリングして複製することにより、1960年に初めてのミサイル「東風1号(DF-1)」を打ち上げ成功させた。しかし、フルシチョフがスターリン批判を開始すると、友好的であった中ソ関係は徐々に対立状態となり、1960年にはソ連の技術的援助は無くなった。以降中国は、ミサイル開発や原子爆弾の開発を独力で進め、1964年10月、新疆ウイグル自治区のロプノールで初の核実験に成功した。さらに同月には、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルを酒泉衛星発射センターより打ち上げ、20キロトンの核弾頭が新疆ウイグル自治区ロプノール上空で爆発した。これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。両弾一星政策の一星の部分が完成するのは、文化大革命中の1970年4月である。
(参考資料)
・百度百科HP 『两弹一星』
12. 「自然科学研究機関の当面の活動に関する十四条の意見(草案)」の公表(1961年)
1958年の大躍進運動やその後の天災などにより、中国の経済社会は大きな苦境に陥った。これを克服するために作成された政策的文書が農業分野の「農業六十条」であり、続いて1961年7月に中国共産党中央委員会により発表されたのが「自然科学研究機関の当面の活動に関する十四条の意見(草案):关于自然科学研究机构当前工作的十四条意见(草案)」である。この十四条は、科学研究機関の秩序を回復し、科学レベルを改善する役割を果たした。
十四条で最も重要な点は、次の4つである。
- 研究機関の使命は研究成果を出し、人材を養成することである。
- 極端な政治的な圧力から科学者を尊重・保護する。
- 中国共産党党員は党員以外の科学者の意見を尊重しなければならない。
- 政治と学術、思想と研究活動を区別すべきである。
つまり、共産党や政府の科学技術や学術活動に対する過度な干渉を戒めるものであったが、これは当時の政治状況の中では十分に生かされず、さらに文化大革命が勃発したことにより効力はほとんどなかった。
(参考資料)
・中国経済網HP 『中共中央同意聂荣臻《关于当前自然科学工作中若干政策问题的请示报告》和国家科委党组、中国科学院党组《关于自然科学研究机构当前工作的十四条意见(草案)》的报告』
13. 「科学技術発展計画綱要(1963年~1972年)」の公表(1963年)
大躍進後の政治改革や経済調整の実施により、経済が徐々に立ち直りつつあった1963年に、前記の科学技術発展遠景計画綱要策定後における中国と世界の科学技術発展状況を踏まえ、「科学技術発展計画綱要:科学技术发展规划纲要(1963年~1972年)」が策定された。
この計画綱要の目標は、1960年代の世界の先進的な科学技術レベルに追い付くことである。国防分野においては、引き続き先端兵器開発を目指すほか、通常兵器においても諸外国のレベルに徐々に追い付くことが強調された。民生の科学技術においては、農業、工業の近代化を進めるとともに、独自の先進的な工業システムを確立し、重点となる基礎科学・基礎技術の空白を埋めることが強調された。
しかし、1966年に文化大革命が始まったため、この計画綱要の十分な展開は不可能とな
(参考資料)
・科学技術部HP 『1963-1972年科学技术发展规划纲要』