第55回 米国が中国のバイオ企業との取引を排除する法案を策定中
1.はじめに
米国下院は9月9日、国家安全保障上の懸念を理由に、中国の主要なバイオテクノロジー企業との取引を排除することを目的とした法案を可決した。今回は本法案の内容や影響等について考察する。
2.本法案の内容と動向
本法案は、通称バイオセキュア法と呼ばれるもので、中国をはじめ、ロシア、イラン、北朝鮮、キューバといった、いわゆる米国の敵対国の主要なバイオテクノロジー企業に米国の連邦政府資金が渡ることを阻止しようとするものである。
ただし、バイオテクノロジーの進展状況を考えると、狙いは明らかに中国になっている。中国については、同法の対象となる企業としてBGI(華大基因)、MGI Tech(華大智造)、WuXi AppTec(無錫薬明康徳新薬開発)、WuXi Biologics(薬明生物技術)、Complete Genomics社の5社が名指しで指定されている。同法により、これら5社と提携したり、これら5社が提供するサービスや機器を利用したりする米国の機関については、2032年以降、連邦政府からの資金調達が禁止されることになる。米国の機関にとって連邦政府資金が途絶えるのは大きく、実質的には中国企業との連携は禁止になるといってよいだろう。
米国下院では、可決に必要とされる3分の2を上回る306票の賛成(反対81票)で可決された。今後の手続きとして、同法案が上院を通過すれば、大統領が署名して成立させるかどうかを判断することになる。上院本会議で同法案がいつ採決されるか、また採決されるかどうかは本稿執筆時点では不明である。
3.本法案の背景
本法案の背景には、トランプ政権から続く米国と中国の経済摩擦・貿易摩擦がある。
両国間の科学技術全般の関係については、文化大革命終了後の1979年に科学技術協力協定が結ばれ、それに基づき、まずまず円滑な協力関係が培われてきた。同協定は5年毎に更新され、最後は2018年に更新された。
ところが同年、トランプ政権は、外国のスパイが米国の研究機関やハイテク企業に侵入する懸念から、「チャイナ・イニシアチブ」と呼ばれるプログラムを立ち上げた。これにより科学技術分野でも米中間の協力は困難になってきたのである。
実際に科学技術協力協定は、期限切れとなる2023年8月になっても更新はされず、6か月間の延長が2回行われた。その延長期間も今年8月で終了したため、現在は宙ぶらりんの状態になっているようだ。
2023年6月には、下院の共和党議員らがプリンケン国務長官に対し協定を完全に廃棄するよう求めてさえいる。
このように科学技術全般に関し規制がかけられようとしている中で、なぜ、さらにバイオに特化した法案が成立されようとしているのか。
これまで米国は世界の科学技術をリードしてきた。だが最近、中国の激しい追い上げにあい、論文引用数等で中国の後塵を拝することになった分野もいくつもある。
しかし、そのような中でもバイオ分野においてはいまだに圧倒的に世界をリードしている。以前のニューズレターでも紹介したように、生命科学の論文(Nature INDEX)から見た上位機関は米国の機関で占められ(第52回 生命科学の論文数から見た各国・研究機関の状況)、医療機器におけるトップ集団も米国企業で占められている(第47回 中国の医療機器の現状について)。そうした進んだ技術を奪われることは米国にとって死活問題になるだろう。
それだけでなく生命科学・医療分野の他分野と比べた特殊性にも着目する必要がある。
医薬品や医療機器の開発に当たっては、臨床研究や治験に際し、米国民が被験者となる。また医療現場での利用においては個々の患者の健康データや遺伝データも用いられる。
これら、いわゆる究極の個人情報が中国に流出することで、中国が米国民の遺伝的・生理的特性を把握することは、中国がそれに適した医薬品開発を行うのに有利となるだけでなく、米国民の遺伝的・生理的弱点を把握されること自体、まさしく国家安全保障の面での懸念がある。
また、医薬品では国民一人一人の健康や生命に直結するものとなるサプライチェーン(供給網)が形成されている。製薬大手が製造受託企業と製薬方法を共有する際などに、米国の知的財産が中国の競合企業に流れることで、そうした円滑な供給に支障が出てこないかなどの懸念がある。
4.本法案の影響
それでは本法案による影響はどうか。
米国に限ったことではないが、製薬企業は莫大な資金を投じて新たな医薬品開発を行っており、また、高齢化社会の進展や医療の高度化により、医療費の総額も増加の一途をたどっている。
一方、中国のバイオ技術は高度化しつつあり、規模の拡大により提供価格は低下している。そのため、米国の製薬会社は、スタートアップ、大手を問わず、中国企業に頼ることが多くなっている。
指定された中国企業のうち、BGI社についてはかつて世界のシーケンス工場と呼ばれ、多数のシーケンサーを並べて世界各国から送られた試料からゲノムのシーケンスを大量に行い、BGI一社だけで米国全体の解析能力を凌いでいた。現在も米国に支社を持ち、米国の機関からの発注はまだまだ多い。その他、BGIは米国の研究者との共同によりヒトだけでなく各種植物、動物、微生物等の試料を使ったゲノム解析の研究も実施しており、法案成立によりこれらの研究も危険にさらされることになる。
またBGI社は、かつてはシーケンス請負業務が中心で、独自のシーケンサーの開発は行っていなかったが、2013年に進んだシーケンサー技術を有する米国のコンプリート・ゲノミクス社を買収し、自らのシーケンサー開発に乗り出した。その後、シーケンサー開発を専門に行うMGI tech社を子会社として独立させ、またComplete Genomics社をMGI techの完全子会社とした。こうして開発されたシーケンサーは試薬代が安価なため、現在の業界盟主である米国イルミナ社の製品に比べ、運用コストが半分ですみ、米国の研究機関や病院等も同機器を購入するようになっている。
またWuXi AppTec社は、研究用細胞株の提供のほか、医薬品原料や細胞療法の製造等、顧客企業の臨床研究の支援を行っている。
ほとんどの米国企業はサプライヤーを公開していないため、今回リストに掲載された5社と取引のある米国企業がどれだけあるか明確ではないが、急速に増加してきているのは確かだろう。WuXi AppTec社は世界の製薬上位20社が顧客にいると主張しており、同社は米国で使用されている医薬品の4分の1の開発に関わっているとの試算もある。
このように米国にとって中国のバイオ企業との結びつきは実に強い。もし同法案が成立すれば、新薬開発やコスト面における米国製薬企業への影響は大きい。中国市場関係者によると、仮に中国にバイオ医薬品の製造委託をできなくなれば、製薬コストは2倍以上に膨らむとのこと。そしてそのしわ寄せは患者に及びかねないのである。
なお当然ながら、同法案は中国側にとっても大打撃となる。たとえばWuXi AppTecの昨年売上高に対する米国ビジネスの比率は実に65%に達するが、法案が審議されている段階から、同社に対する米企業からの発注を減らす動きがみられ、法案が米国下院を通過した翌日、香港市場で同社の株価は一時11%下落した。
対象となった中国企業はいずれも、懸念される医療データ収集や中国政府の支配はないと反論している。また、中国外務省は、同法案は差別的であり、米国は中国企業を抑圧する言い訳をやめるべきだとし、中国は自国企業の正当な権利と利益を断固として守り続ける旨、強調している。
5.おわりに
このように米中関係はエスカレートする傾向もあるが、最近の状況としては、特に中国は長引く景気低迷を懸念し、歩み寄りを見せる可能性はある。一方、米国では大統領選挙までは中国に対し妥協は許されないという態度をとるものと思われるが、大統領選後、落ち着いてメリット・デメリットを判断することになれば、このようなバイオの制限を見直す気風も生まれるのではないかと予測する。
これらの動きが日本にとってよいことか悪いことかはわからないが、その動向を見守っていきたい。
参考文献
・ R. F. Service (2024) “Bill targeting Chinese firms worries US researchers”, Science; Vol.385, 1259-1260
・N. Gilbert (2024) “US and China inch toward renewing science-cooperation pact – despite tensions”, Nature; Vol.633, 499-500
・「中国CDMO業界、米バイオセキュア法の衝撃」(2024/07/18)化学工業日報(https://chemicaldaily.com/archives/495295)
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔