第23回 NIHの新長官が決まる見込み
長期間空席となっていた米国国立衛生研究所(NIH)の第17代長官に、NIH傘下の研究所の1つである米国国立がん研究所(NCI)所長のモニカ・ベルタニョリ(Monica Bertagnolli)氏が指名される見込みとなった。今回はこれをとりまく状況・経緯について紹介する。
NIHは米国メリーランド州べセスダに本拠を置き、450億ドル以上の予算を持ち、27の研究所とセンターで構成される世界最大の生命科学・医学研究機関である。そのトップであるNIH長官は、各種判断・決定を通じて絶大なる権限を持つ。
同ポストは、前任のフランシス・コリンズ(Francis Collins)氏が2021年12月に退任して以来、ほぼ1年半、空席のままだった。ベルタニョリ氏が今後、ホワイトハウスからNIH長官として指名され、それが上院で承認されればその空白を埋めるものとなり、1991年から1993年まで長官職を務めたバーナディン・ヒ―リー(Bernadine Healy)氏に続き、2人目の女性長官となり、また初めての外科医の肩書を持つ長官となる。
ベルタニョリ氏のことを紹介する前に、前任であるコリンズ氏について説明したい。同氏は2009年8月以来、3人の大統領の下で12年以上にわたってNIH長官を務め、在任期間はこれまでで最長だった。長官就任前は、1993年から2008年まで国立ヒトゲノム研究所の所長を務め、国際ヒトゲノムプロジェクトも主導した。
同氏の長官在任中、NIHの研究は連邦議会で超党派の支持を受け、NIH予算も2009年度の300億ドルから2021年度には413億ドルに増加した。
特にオバマ政権下では「BRAINイニシアチブ」、「精密医療イニシアチブ」、「がんムーンショットイニシアチブ」等の大型プロジェクトを次々と立ち上げた。このうちがんムーンショットイニシアチブは当時副大統領だったバイデン大統領と連携して行ったものである。
最近では、新型コロナウイルス感染症パンデミックに対応して、官民パートナーシップである「COVID-19治療介入・ワクチン促進(ACTIV)」を開始している。
ベルタニョリ氏は、このような数々の功績を挙げたコリンズ前長官を引き継ぐわけであり、同氏には期待がかかるとともに、大きな重圧がかかることになると思われる。
ベルタニョリ氏は腫瘍外科医であるが、胃腸がんに関連する遺伝子変異や、炎症のがんの増殖に対する影響等について研究を行ってきた。そして2022年10月からはNCIの初めての女性所長となり、まさに采配を振い始めてわずか半年ほどで、新長官の任務を引き受けることになるわけである。きわめて性急な話であるが、それだけ同氏の資質や人望等が高く評価されてのことだろう。
同氏はかつて、米国臨床腫瘍学会の会長を務め、またNCIと協力してがん臨床試験を計画・実施するためのネットワークである「腫瘍学における臨床試験のための同盟(Alliance for Clinical Trials in Oncology)」を率いてきた。その経験から、企業、政府機関、患者擁護団体の間で調整を行いつつビジョンを達成していく能力を十分に持っていると考えられる。
なお同氏は、2022年12月に乳がんとの診断を受けたが、自ら、新たな診断法開発のための臨床試験の参加者となり、その後治療は順調に進んでいるとのことである。
さて、それでは新長官にはどのような課題が待ち受け、いかなる対応が求められるだろうか。最近の記事をもとに整理してみる。
米国国内には、NIHのもつ官僚的な形式主義がもたらす弊害について不満を持っている研究者は多く、迅速な資金提供が求められている。前述ヒトゲノムプロジェクト等、国際連携も含め円滑に進んだものもあるが、より効率的な資金提供システムが不可欠となっている。
バイデン大統領は、ライフサイエンスにおける高リスク・高リターンの革新的な研究に資金提供を行うため、高等保健研究計画局(ARPA-H)の設置を提案している。そして米国議会は今年早期、同機関のプログラムに1億ドルを投入することを決定した。
ただ、同機関の位置づけ等を定める法令はまだ可決されていない。それをNIHの傘下に置くか外に置くかで議論が戦わされ、結局べセラ保健相は傘下に置くことを決めたものの、ARPA-HはNIH長官を飛び越えて保健相に直接報告を行うという位置づけになった。このような折衷的な方法でNIHとの切り分けがうまくいくかどうかは分からず、新長官の腕の見せ所だろう。
なおARPA-Hはトランスレーショナル研究、すなわち実用化への橋渡しとなる研究に焦点を当てているが、NIHは高リスク・高リターンの基礎研究に資金提供を行うような別の機関も持つべきだとする意見もあり、新長官にはそのための尽力が求められる。
研究資金獲得研究者のバイアス問題がある。10年以上前、NIHのグラントの申請に当たり、黒人研究者は白人研究者よりグラントを獲得率が極めて低いことが分かった。
これに対し、当時のコリンズ長官は原因究明を約束し、そのための調査を行ってきた。しかし、その後現在に至るもバイアスは解消されておらず、最近でもNIHの資金獲得上位研究者のうち黒人はわずか1.4%と低い。
所属機関によるバイアスもある。2022年にNIHが行った分析によると、最も多くの研究資金を受け取っている上位10%の機関には研究プロジェクトの資金全体の65%が集中し、一方、下半分50%の機関は研究資金全体の5%しか受け取っていない。
このような各種バイアスはNIHの公正性や権威に影を落とすものであり、新長官にはバイアスを解消するための具体的対策とその結果の実証が求められる。
さらに、新型コロナのパンデミックはNIHに大きな問題を投げかけた。確かにNIHからの資金提供により、製薬企業との連携により臨床試験が急速に進み、医薬品とワクチンの開発につながった。だが、米国ではそのような治療・予防法が利用可能になったにもかかわらず、ワクチンを接種されている割合は低い。
これらの問題に対応するには社会科学や行動科学の観点からの研究が必要である。NIHの研究所は従来、それぞれ特定分野にシフトされすぎており、独自の狭い分野での結果を出すことに重点を置いてきている。今後は実際に健康状態を形成・維持するために、各要因がいかに相互作用をするかも踏まえつつ、総合的な対策を講じていかねばならず、そのためには長官のリーダーシップが必要である。
また、NIH長官は、政治的な才覚が不可欠である。COVID-19パンデミックの際、民主党と共和党の対立を通して、科学への政治介入が生じた。これが続くと、NIHがこれまで受けてきた超党派による支援を失うのではないかと懸念する声もある。
NIH長官は議会の公聴会等に対応していくことは必要で、これまで議会対応の経験のない同氏にとっては重荷に違いない。だがそれだけでなく、少なくともインフレに見合う速度ではNIHの研究予算の増大を図らねばならず、そのためにはNIH長官は象牙の塔にこもるのではなく、積極的に政治に対して働きかけていかねばならない。
(参考文献)
・M. Kozlov & H. Ledfold (2023), “White house to tap cancer leader as new NIH director”, Nature; Vol.616, 638-639
・J. Mervis (2023), “Biden to nominate Monica Bertagnolli to lead NIH”, Science; Vol.380, 326-327
・M. Kozlov (2022) “Reinventing the NIH”, Nature; Vol.605, 22-24
・遠藤悟「NIHのピアレビュー評価基準の改定とバイアス低減の取り組み」
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔