第51回 英国がヒト胚モデルに対する初の行動規範を公表

1.はじめに

 本年7月、英国はヒト胚モデルを使った研究に対する世界初の行動規範(Code of Practice)を公表した。今回はこれについて、周辺状況も含め紹介する。

2.ヒト胚モデルとは

 ヒト胚モデルとは、胚性幹細胞(ES細胞)や人工多能性細胞(iPS細胞)から作製される、ヒト初期胚に似た構造を持つ細胞の集合体であり、ヒト初期胚の発生に似た様式で分化と自己組織化を始めることができるものである。

 ヒト胚モデルづくりやそれを利用した研究は、最近急速に盛んになった分野である。当初はなかなかその構築は難しく、また構築したように見えても必要な機能を有さない場合もあった。
 だが本ニューズレターでも紹介したように(第34回 ヒトES細胞からのヒト胚モデルの作製)、2023年、イスラエルのチームはナイーブ型ヒトES細胞を用いて、化学物質を働かせることにより、ヒト初期胚で見られる4種類の細胞を作出し、それを一定の比率で混合・培養することによりヒト胚モデルを作出した。また、英国ケンブリッジ大学や米国エール大学のチームも同様の方法でヒト胚モデルづくりに成功した。
 このように幹細胞ベースのヒト胚モデルの作出研究は急速に進展し、その研究者数も急増してきている。

ヒト胚モデルの図 Science誌HPより引用

 それではヒト胚モデルを用いた研究を行う利点は何か。

 ヒトの初期の発生・分化・発達を研究するためには、従来は体外受精を受けた患者から提供された余剰胚に頼るか、提供された生殖細胞を受精させて用いるしかなかった。だが、そのような胚や生殖細胞は、入手するのが難しい場合が多い。また、入手できたとしても、研究目的が制限されたり、臓器などの形成が本格化する受精後14日を超えた研究はできなかったり(これを「14日ルール」という)等、倫理的規制を受けなければならない。

 これに対し、ヒト胚モデルは、iPS細胞からも作出でき、入手が容易である。また、一度の作製で大量に得ることができる。さらに、胚そのものではないため、本物のヒトの胚より倫理的制約が少ないと考えられる。ヒト胚モデルを個体にまで生育させるのは現時点では科学的に難しいことも、倫理的制約が軽減される一因になるが、一方で、ヒト胚の初期段階に相当する時期においては、発生の様子をさまざまな側面で再現し、不妊症や流産に関する洞察を行うことが可能となる。これらヒト胚モデルのもたらす利点は、研究者にとって大きな魅力となっている。

 しかしヒト胚モデルの研究が進むと、将来的にヒトの完全な発生の可能性が開けてきたり、さまざまな利用が企てられたりすることが考えられ、それらヒト胚モデル独自の倫理的問題に備えたルール作りの必要性が生じてきた。

3.ヒト胚モデルに対する生命倫理規制の経緯

 上述のように、ヒトの胚そのものを使った研究は、世界のほとんどの国で厳しく規制されているが、ヒト胚モデルの研究に対し、特化して規制することは、これまで各国で行われてはこなかった。

 これに関し、国際幹細胞学会(ISSCR)は2021年にガイドラインを改定し、ヒト胚の14日ルールについては、各国・地域で社会的支持が得られ、政策や規制で容認されれば、体外での14日を超えての生育の必要性・正当性についての検討が可能とされた。また、一部の胚モデルに関する研究に対し、各国が専門的な監視プロセスによって審査するよう勧告した。

 これを受けて各国は検討を開始した。だがその方針は必ずしも一致していなかった。オーストラリアではヒト胚モデルを一般のヒト胚と同じやり方で規制することを決めたが、日本、米国等は少なくとも両者を同等とはみなさなかった。

 英国はこれまで、試験管ベイビーやクローン羊ドリーの作出を世界に先駆けて行い、それら先端的な医療や研究に対する生命倫理規制を世界に先駆けて策定してきた歴史がある。ヒト胚研究や生殖医療に関する規制についても、多くの場合、公聴会等も行ってパブリックアクセプタンスを得つつ、規制を迅速に制定してきた。こうしたことから、英国は生命倫理の先進国とみなされており、ヒト胚モデルの検討状況も世界から注目されてきた。

4.今回の行動規範の内容

 今回の行動規範作りは、ケンブリッジ大学やロンドンを拠点とする慈善団体プログレス・エデュケーショナル・トラスト(PET)等が中心になって進められてきた。研究者、弁護士、社会学者、生命倫理学者、ISSCR等の団体、さらに一般市民と2年以上にわたる協議が行われてきた。また、日本を含む世界中の 50 名以上の研究者に初期草案が送付され、その反応も参考にされた。

 その性質としては、強制力がある規制ではなく、研究者が自主的に守るべきガイドラインの形になっている。その要点は以下のとおりである。

・ヒト胚モデルを個体にまで成長させたり、ヒトや動物の子宮に移植したりしない。

・ヒト胚モデルを実験室で育てることのできる期間について、一律の期限は設けず、個々の研究において、その目的を達成できる最小限の期限を定める。

・上記研究期限の設定を含め、ヒト胚モデル研究を審査・承認し記録するための監視委員会を設ける。

・同委員会では、研究目的の科学的正当性、ヒト胚モデルの作出元細胞の提供者の同意、研究によるメリットの明確性等、一連の研究原則に準拠している場合に承認する。

・ヒト胚モデルは実験終了後、急速冷凍、化学固定等の適切な方法で廃棄する。

・研究について透明性を保ち、結果を共有することで社会的信頼性を築く。

5.今回の行動規範の意義・影響

 今回のヒト胚モデルに対する行動規範は、包括的なアプローチにより各界の意見をうまく取り入れており、他の国々にも参考となるものと思われる。一つ一つの項目も慎重かつ賢明で、将来を見据えていると支持する声も多い。

 今回の行動規範には法的拘束力はないが、今後、資金提供者、出版社、規制当局を含む研究コミュニティに広く採用されると思われる。その結果、規範を遵守しない研究者は、雑誌に論文を発表したり、研究資金を獲得したりすることが困難になる可能性がある。また研究者コミュニティから疎外される可能性もある。その意味では、本規範は米国NIHのガイドラインなどと同様、実質的な強制力を持つと言っていいだろう。

 ただし、個別には問題もある。
 まず、ヒト胚モデルに一律の培養期限を設けていない。これは、異なるヒト胚モデルはそれぞれ異なる発達段階を表し、発達速度も異なるため、単一の固定された時間制限を設けるのは現実的ではないということである。
 しかし一律の期限を設けることで、国民は研究が無制限に進められているわけではないという安心感が与えられる。たとえばフランスとオランダの機関は、特定の種類の胚モデルについて、受精後28日を超えて培養しないことを提案している。
 今回の行動規範ではそのような一律の期限を設ける代わりに、ケースバイケースで実験期間を十分な根拠をもって決めることが必要になるのである。

 次に、監督委員会に与えられた裁量権はかなり大きい。つまり、前述のように培養期限や、神経発達が進んだ段階の胚モデルなどについて、明確な制限を設けておらず、委員会の判断に委ねられるわけである。
 そうなると、委員会のメンバーの専門知識の欠如や、偏向した考えにより不適切な判断が行われる可能性がある。委員会はヒト胚モデルについて規制する立場ではなく、正当化するために利用されるという懸念も生じる。

 なおISSCRは本年6月、胚モデルに関するワーキンググループを設置し、ISSCRガイドラインの改訂に向けた勧告を行うと発表した。

6.日本における状況

 日本では現在、ヒト胚の研究に関する規制はあるが、同規制ではヒト胚モデルは想定していない。

 これについては、内閣府総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の生命倫理専門調査会で、2022年から検討が行われてきている。そして本年3月、同調査会の下部組織である作業部会が、ヒト胚モデルについては、個体産生の禁止や培養期間の上限設定といった規制を設けつつ研究を行っていくべきだとの見解を報告した。

 これを受けて同調査会は本年6月、ヒト胚モデル研究の規制の在り方について本格的な議論を始めた。ヒト胚モデルもヒト胚と同じくヒトの萌芽と位置付けるべきかどうか等、5つの論点案が示された。今後、ヒト胚モデルの定義やヒト胚との倫理的な差異を確認しながら、どこまでの研究を許容すべきか等、規制の在り方が検討されることになる。

 その上で、同調査会は検討内容を報告書にまとめCSTI本会議に提出し、それを踏まえて文部科学省などが関連する研究指針の改正を検討する見通しである。

7.おわりに

 これまで述べたように内外におけるヒト胚の研究も、それに対する規制の検討も急速に進展している。今後ともその両方の動きを注意深くキャッチアップしていきたい。

参考文献

・S. Mallapaty (2024) “Lab-grown embryo models: UK unveils first ever rules to guide research”, Nature; Vol. 631, 259-260
・A. Epshtein, “U.K. publishes first guidelines for human embryo models grown from stem cells”, Science (2024/06/05) 
https://www-science-org.translate.goog/content/article/uk-publishes-first-guidelines-for-embryo-models-grown-from-stem-cells?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
・「ヒト受精卵モデル、研究規制の議論開始 内閣府調査会」日本経済新聞HP(2024/06/19)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOSG1945C0Z10C24A6000000/

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔