第56回 ハエの脳全体の神経回路地図を完成
1.はじめに
ハエの脳全体の神経回路地図を、多数の研究者からなるチームが完成させ、本年10月、Nature誌に9報の論文として発表した。これにより、ヒトの脳の解明に向けても大きく踏み出したことになる。今回はこの記事について、解説・考察する。
2.本成果の背景と内容
(1)本プロジェクトの背景
ヒトを含む生物の脳が、各種の活動でどのように働いているかは、1個のニューロン(神経細胞)に絞って単純化することはできない。どのニューロンとニューロンが接続しているか、また接続の強度はどうか等、脳全体の複雑なネットワークを調べる必要がある。
このような、脳のネットワークを表すものとして「コネクトーム」という言葉が用いられる。コネクトームとは、生物の神経系を構成するニューロンやニューロン間の接続部位であるシナプスを詳細に表した、神経回路の地図(マップ)のことである。
これまで、302個のニューロンを持つ線虫(C. elegans)の脳のコネクトームや、3,000個のニューロンを持つショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の幼虫の脳のコネクトームが作製されてきた。だがショウジョウバエの幼虫ではまだ脳は発達しておらず、比較的単純な行動しかとれない。このためコネクトームを作製しても、より複雑な行動との関係は分からなかった。
成虫のショウジョウバエは、幼虫よりはるかに複雑な脳を持っている。その脳の大きさは直径約750μm、高さ350μm、厚み250μmと、ケシの実ほどしかない。だがその中に、約14万個ものニューロン、約5,450万個ものシナプスが含まれている。そしてその違いが、ショウジョウバエに飛翔したり、敵と戦ったり、時には仲間と戯れたりという能力を与えているのである。求愛行動時にオスのショウジョウバエがメスに聞かせる歌は即興であるとされている。
このため、成虫のショウジョウバエの脳のコネクトームを解明することは、大きな意義があるものとみなされてきた。これまで2万5,000個のニューロンからなる脳の一部(半脳と呼ばれる)についてはある程度コネクト―ムが作製されていたが、それだけでは活動や機能との関係は分からず、全脳のコネクト―ムの作製が求められていた。
(2)FlyWireコンソーシアムについて
このショウジョウバエの脳を解明するため、2018年に「FlyWire」という研究者のコンソーシアムが結成された。
同コンソーシアムは、米国プリンストン大学の研究者が主導するもので、現在、122の研究機関に属する146の研究室の研究者らが参加している。大部分は米国の研究者であり、一部英国の研究者が含まれているようだ。
なお本研究の実施に当たっては、米国の脳のビッグ・プロジェクトであるBRAINイニシアチブから資金が拠出されている。
(3)研究の方法と成果
今回Nature誌に掲載された9報の論文の基盤になるショウジョウバエの脳のコネクトームが得られた経緯は次のとおりである。
まず今回のコネクト―ムの原型となった、ショウジョウバエの脳全体の粗いマップはプリンストン大学の研究者らが独自に作製した。
彼らは、ショウジョウバエの脳のスライスを撮影した2100万枚もの電子顕微鏡画像を基にして、ニューロンやシナプスをマッピングした3D画像の作製を行った。彼らはその作製過程において、自分たちが開発したAIモデルを使用し、自動的に画像を生成させた。
だがそれは完璧からはほど遠く、配線に誤りがないかを手作業により一つ一つ校正していくことが必要で、彼らはその作業に多大な時間を費やした。
そこで、自分たちだけでは限界があると悟ったプリンストン大学の研究者らは、コンソーシアムのメンバーやその他のボランティア研究者に協力を呼び掛けた。そうして、全体として合計300万回以上の手作業による編集が行われた。
しかし作業はそれだけでは終わらなかった。得られた配線図にさらに注釈をつける必要があった。すなわち、それぞれのニューロンを、関係する神経伝達物質等のタイプ毎に分類してラベル付けをする作業である。これはAIがある程度候補付けをしたものを研究者が確認することにより行われた。
そして、合計8,453種類のニューロンが特定されたが、このうち半分以上の4,581種類は新たに発見されたものだった。
これにより、特定のニューロンが受信したメッセージを増幅しているか抑制しているか等も知ることができるようになった。
このようにして脳のコネクトームが得られた結果、脳の各部分は驚くほど相互につながっていることが分かった。たとえば視覚の経路は、単に目からの信号だけでなく、聴覚や触覚等、複数の感覚からの信号を受けていることが分かった。
なおその他、こうして得られたコネクト―ムを利用してさまざまな解析が行われた。たとえば以下のとおり。
・コネクト―ムに基づき、ショウジョウバエの脳全体のシミュレーションモデルが作製された。それを用いて、コンピュータ上で味覚を感じるニューロンを刺激すると、脳を通じて最終的にハエの口吻という、哺乳類の舌に相当する機関に結び付く運動ニューロンが刺激されることが分かった。甘味を感じるニューロンの刺激でそれが促進され、苦みを感じる回路の刺激で抑制されることが分かった。
・ハエの歩行を止める信号を送る2つの配線回路が解明された。一つはハエが止まって餌を食べたいとき、脳からの信号自体を停止させるのに働く回路、もう一つはハエが毛づくろいをしている間止まれるように、脳からの信号を受信して、ハエの脚の関節に抵抗を生み出させるよう処理するのに働く回路である。
・従来作製された半脳のコネクト―ムとFlyWireのコネクト―ムを半脳部分で比較したところ、いくつかの違いがみられた。特に嗅覚に係るキノコ体と呼ばれる部分のニューロン数は、FlyWireバエではの半脳バエの2倍にもなっていた。これは半脳バエが成長中に飢餓状態になり脳の発達に悪影響をもたらしたことを示唆する。いずれも1匹のハエの試料からコネクト―ムを作製したための個体差と考えられた。
なお、研究チームは、作製されたショウジョウバエの全脳コネクトームを「FlyWire Codex」(Codex:Connectome Data Explorer)というウェブページで公開しており、興味のある研究者は誰でも大量のデータをダウンロードしたり、ニューロンやシナプスの経路を探索したりすることができる。その代わり、その利用により配線図の校正や注釈付けを手伝ってもらえることが期待されている。
3.今後の方向
今後、研究者らが最終的に目指すものとしては当然、ヒトの脳の解明ということになる。
ショウジョウバエはヒトのDNAの60%を共有しているほか、ヒトの遺伝病の約75%はショウジョウバエと類似点があるとのこと。そのため、ショウジョウバエの脳を理解することは、ヒトのようなより複雑な脳を理解する足がかりになると期待される。
ただ、ヒトの脳はショウジョウバエの脳よりもはるかに複雑である。ショウジョウバエのニューロンが14万個であるのに対し、ヒトの脳には約860億個のニューロンがある。なんと60万倍である。そうなると、それらの機能を解明するのは極めて困難になる。
当面、できるところから一つ一つ段階を追ってやっていくしかない。
今回解明したのはショウジョウバエのメスのコネクトームだが、研究者らは当面、オスのコネクトームを解明することにより性差の解明を行うことも考えている。
また、たとえばマルハナバチはショウジョウバエよりもはるかに賢いが、その理由が解明できれば、ヒトがマウスよりもはるかに賢い理由について多くのことが分かるかもしれない。
さらに研究者らは現在、ショウジョウバエの脳の約1,000倍のニューロンを持つマウスの脳の解明にも取り組んでおり、そうした段階を経ていずれはヒトの脳の解明が見えてくると考えられる。
4.おわりに
脳は生命科学最後のフロンティアと言われて久しく、かつては個々の研究者がそのブラックボックスを解明するため、個々の才覚で独自の視点から研究を行ってきた。
だが近年は、日米欧や中国で、それぞれ組織的・体系的に解明していくためのビッグ・プロジェクトが推進され、着目すべきはそれらが反目することなく、互いに連携して解明を行い、その成果は共通のプラットフォームにしようという姿勢になってきていることである。
今後、AIの利用等によりますます進展していくと思われるが、倫理的側面には十分注意を払いつつ、人類共通の課題の解決に向けていっそうの進展を期待する。
参考文献
・S. Reardon “Largest brain map ever reveals fruit fly’s neurons in exquisite detail”, (2024/10/2) Nature HP
(https://www.nature.com/articles/d41586-024-03190-y)
・J. Hamilton “From fruit fly to this guy: a map of one tiny brain may show how larger ones work” (2024/10/2) Shots Health News from NPR
(https://www.npr.org/2024/10/02/nx-s1-5124734/fruit-fly-brain-connectome-neurons)
・「ハエの脳の完全なマッピングに大規模な科学者チームが成功、ヒトの脳の理解に向けた大きな一歩を踏み出す」(2024/10/3) Gigazine HP
(https://gigazine.net/news/20241003-mapping-entire-fly-brain/)
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔