第57回 ハリスかトランプかで米国の生命科学はどうなるか

1.はじめに

 11月5日の米国大統領選挙が近づいてきた。誰が米国の大統領になるかにより、生命科学に対する同国の政策や方針が大きく変わり、日本にも影響が及ぶ可能性がある。このため、本ニューズレターでは今年4月、当時の候補者について分析を行った。(第44回 バイデンかトランプかで米国の生命科学はどうなるか

 だがその後、民主党の大統領候補はジョー・バイデン大統領からカマラ・ハリス副大統領に替わり、共和党の候補のドナルド・トランプ前大統領と対峙することになった。そこで、両者の生命科学に対する姿勢について改めて分析・考察することにしたい。

 ただし、ハリス氏は大統領候補になった後の期間が短く、また今回の選挙キャンペーンにおいては、ハリス氏もトランプ氏もほとんど科学技術政策、また医療保険や妊娠中絶等以外の医療政策、そしてその交わりである生命科学政策に焦点を当ててこなかった。このため明確な比較は難しいが、トランプ政権及びバイデン政権での政策、両者のこれまでの行動や発言、また第三者の評価等からできる範囲内で分析・考察することとする。

ハリス氏とトランプ氏  BBC HPより引用

2.科学技術全般に関する両候補の姿勢

 前述のように、この選挙キャンペーン期間には、両者は科学技術そのものに関しては、ほとんど何も言っていない。ただ、トランプ氏は大統領時代の、カマラ氏は現政権の方針を、それぞれ維持すると考えられる。

 以前の分析で述べたこととして、トランプ氏の大統領時代は政府科学者の排除、科学者を含む7か国の国民の渡航禁止措置、パリ協定からの離脱等、科学技術全般を軽視する姿勢をとっていた。一方ハリス氏を含む現政権は科学者の登用、渡航禁止措置の撤回、パリ協定への復帰等、科学的エビデンスに基づく意思決定を行う姿勢であった。

 実際に大統領就任後はどうなるか。

 トランプ氏は、連邦政府の縮小を推進する立場から、研究予算も削減する可能性が高い。たとえばフランスで建設中の核融合実験炉(ITER)、また建造を開始した2つの大型望遠鏡が標的となる可能性がある。
 トランプ氏は科学技術そのものの価値をあまり認めず、大統領になるとそのような方向での施策を行うというのが正直なところだろう。
 なお前回の政権時は大統領科学顧問かつホワイトハウス科学技術政策局(OSTP)の長の指名が大幅に遅れ、混乱を招いたが、それが繰り返される可能性がある。

 一方、カマラ氏は基礎研究、気候変動対策、医学研究の推進等を図ると考えられる。それに対しどれだけ強い思い入れがあるかは明確でないが、少なくともトランプ氏に比べれば積極的な施策となると思われる。
 なお現政権では紆余曲折の末に、大統領科学顧問とOSTPの長は別々の人物になっているが、ハリス氏が大統領になるとその体制が存続する可能性がある。

 予算については、議会と大統領の間でかつて取り決められた総予算の平準化という制約や、議会の意向等もあり、どちらが大統領になっても最終的にはそれほど極端なことにはならないだろうが、重点化についてはそれなりに大統領の意向は反映されると思われる。

 科学技術における中国との関係について付言すると、科学論文数等の躍進がめざましい中国との研究協力そのものは、一般論として米国にとっても意義があると想定される。
 しかしトランプ氏は大統領就任後、前述のように、中国研究者を含む7か国の国民の渡航制限を行った。またチャイナ・イニシアチブと呼ばれる、連邦政府による学術スパイ活動の取締りにより、多くの中国と関係する研究者が捕らえられた。
 バイデン政権になってそれらの措置はなくなったが、その影響が現在も続き、中国との研究協力が停滞し、共著論文数が急落下している。
 トランプ氏が大統領になると、こうした政策が繰り返される可能性がある。

中国、米国、英国間の共著論文数の推移 Nature誌の記事より引用

3.医療分野に対する両候補の姿勢

 医療分野では、医療保険や人工妊娠中絶は争点の1つになっている。

(1)医療保険

 医療保険については、以前のニューズレターでは触れていなかったため、少し詳しく書く。

 まず米国の医療保険制度について。日本では、国民全員が公的医療保険に加入する国民皆保険になっているが、米国の公的医療保険制度は限定的である。
 65歳以上の高齢者や障害者を対象とする「メディケア」、及び低所得者層を対象とする「メディケイド」のみで、合わせて国民全体の3割しか加入しておらず、国民の5割は民間の保険に加入している。
 なお2010年3月、従業員50人以上の企業に保険加入を義務付けるとともに個人にも医療保険加入を義務付ける「医療費負担適正化法」(通称オバマケア)が制定され、2014年に本格稼働したことで、医療保険が適用される者が数百万人増えた。

日本と米国の保健医療制度の比較  福岡市医師会医療情報室レポートより引用

① メディケアについて

 メディケアについては、ハリス氏は上院議員時代に「メディケア・フォー・オール」の導入を主張した。オバマケアでは根本的な解決にはならないとして、メディケアを高齢者以外にも適用させ、さらに眼科・歯科等のサービスも含めるように主張した。
 ただそれに統一されると巨額な財源が必要となり増税につながるとともに、現在多くの人が加入している民間保険業界が危機にさらされる。このため、2020年の大統領選では結局、より穏健な改革案を提案したバイデン氏が当選を果たした。
 ハリス氏は副大統領となったことから、オバマケアを緩やかに改良していくという方向で政策を行い、今回の大統領選挙戦でもこの路線で闘っている。

 一方、トランプ氏は大統領時、メディケア・フォー・オールについて「社会主義的」だと非難した。そして実際の担当としてのペンス副大統領を通じ、反オバマケアを主張した。
 だが、コロナ禍でオバマケアに対する世論の支持が高まってきていることにより、少し考えを変えてきている。今回副大統領候補に選んだヴァンス氏は、経済的弱者や既往症がある人々から医療保険を奪うべきではないという考えから、基本的にはオバマケアの存在意義を必要悪として認めている。
 なおトランプ氏は、従来の範囲を超える特典を提供するメディケア・アドバンテージ(MA)プランへの加入を奨励する。つまり掛け金を多く支払った者は様々な機会により多くの保険金が支払われるようにすることを考えているようだ。

② メディケイドについて

 メディケイドについては、連邦と州が共同で行い、州はその適用範囲を拡大することができる。この制度を拡大した州では住民の健康状態が改善しているが、制限している州では改善していないという実績が得られつつある。
 このため、ハリス氏は、その拡大を図るため、そのための法令改正や連邦政府が積極的にイニシアチブをとることを支持している。

 一方、トランプ氏は大統領任期中、メディケイド受給資格の条件として就労要件を厳しくし、受給資格を得ることを困難にした。そして現在も、適用範囲を制限するという州の裁量の柔軟性を維持し、拡大のための連邦政府の資金を削減することを考えているようだ。

(2)人工妊娠中絶

 米国では、女性の中絶権を一般に認めた1973年のロー対ウエイド判決が、2022年の米国最高裁判決で覆り、米国各州は、それぞれ独自の州法で中絶を禁止できるようになった。

 この最高裁判決に関しては、トランプ氏は大統領時代に最高裁判事として中絶反対派3人を任命したことが大きく、当初トランプ氏はこのことを自身の実績だと強調し、中絶反対派の支持を得ようとした。
 だが、女性には中絶手術を求める声が多いことを踏まえ、途中から、中絶の是非については、全米一律の規制ではなく、各州が判断すべきであるとし、また、母体に危険がある場合等は例外として中絶を容認する姿勢を示すようになっている。
 なおトランプ氏は中絶手術とは別に、公的負担による不妊治療を認めるべきとの主張をしているが、これは共和党の議員らから反発される可能性がある。

 一方、ハリス氏はトランプ氏の中絶に対する姿勢を激しく非難し、中絶手術は絶対的権利としている。それを保証するため、立法措置の必要性を主張し続けてきている。
 その他、避妊や体外受精等の家族計画への支援推進を支持している。

(3)感染症対応

 新型コロナ対応では、トランプ氏は大統領時、新型コロナに対し、科学的根拠に基づく検証等を行おうとせず、漂白剤の注射で病気が治る等の根拠のない主張を行い、誤情報を広めた。また、対策の主体となる米国疾病予防管理センター(CDC)、米国衛生研究所(NIH)、米国食品医薬品局(FDA)の権限を制限した。
 それもあって米国は2020年末までに、約35万人が新型コロナで亡くなった(なお、現在の累計死者数は100万人を大きく超える)。
 ただしトランプ政権は、「ワープ・スピード作戦」を打ち出し、新型コロナワクチンを極めて迅速に開発した。

 一方、ハリス氏が副大統領を務めたバイデン政権では、新型コロナワクチンの広範な配布を促進し、新型コロナの検査キットの無料郵送を実施した。また、今後のパンデミックにも備えるため、パンデミック準備・対応政策局を創設した。
 ハリス氏は大統領就任後も、こうしたパンデミック対策は積極的に進めていくと考えられる。
 なおトランプ氏は、パンデミック準備・対応政策局を利益誘導プロジェクトと呼び、廃止を考えている。

4.生命科学研究に対する両候補の姿勢

 トランプ氏は、生命科学研究に関しては消極的である。就任後最初の予算では、NIH予算を28%削減する方向で予算要求を行った。ただし、以前のニューズレターでも述べたが、超党派による働きかけもあり、トランプ政権の間、予算は結局、減額されず、むしろ少しずつではあるが増額が維持された。

 トランプ氏は減額要求を行った際、機関の間接経費を大幅に減額しようとした。研究費そのものには手を付けていないので研究者は困らないだろうとの考え方だったが、研究者の雑務が拡大して研究そのものに手が回らなくなってしまう。同氏が大統領になると同じ考え方での減額が繰り返される可能性がある。

 トランプ氏は大統領任期中、新型コロナで痛手を受けたにもかかわらず、生命科学研究を軽視する姿勢は現在もあまり変わっていない。特に、オバマ政権が開始したビッグプロジェクトである精密医療イニシアチブ(現在はAll for Us)、BRAINイニシアチブ、国家がんプログラム等、大規模な資金を必要とするプロジェクトには否定的である。
 次期大統領のための方針を示したプロジェクト2025の指針には、NIHとCDCの予算は数十億削減する旨記載されている。ただし、希少疾患治療薬の開発は加速する意向である。

 一方、民主党政権では、3大プロジェクトの維持・拡大も含め、NIH予算の安定的な増加を図ってきており、ハリス氏はそのトレンドを維持すると思われる。特に、現政権では保健医療先端研究計画局(ARPA-H)という新たな生物科学研究機関の設立を目指した。議会ではほんの一部しか資金提供が行われなかったものの、立ち上げには十分だった。
 ハリス氏は、大統領就任後はこれを増額要求すると考えられる。

5.おわりに

 ハリス氏は現政権にいるだけに、バイデン現大統領との政策の違いは医療保険や中絶等一部を除き、ほぼ同様である。一方、トランプ氏も前政権での教訓を踏まえ、少しはその極端な部分を改善する可能性がある。

 いずれにせよ、生命科学研究がどうなるかは実際に両者が大統領職に就かないことには何とも言えない。ただ、日本は、NIHやCDCをお手本としているだけに、その動向によっては今後、多かれ少なかれ影響を受けると思われる。

 米国の研究が停滞することは、競争の観点から日本に有利に働く可能性はあるかもしれないが、共同研究や研究協力を含め、世界的な研究の進展の遅延になるのは、特に生命科学の分野では問題がある。

 残り少しに迫った選挙動向を見守りたい。

(参考文献)

D. Bonazzi / Salzmanart (2024) “The stakes for science”, Science; Vol.386, 262-267
・“The US is the world’s science superpower — but for how
long?”, (2024/10/23) Nature HP(https://www-nature-com.translate.goog/articles/d41586-024-03403-4?error=cookies_not_supported&code=3b35e72d-96db-483d-89b8-0e3ae2664740&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
・P. M. Boozang et. al. “Potential Harris and Trump Health Policy Agendas”, (2024/10/2) Manatt HP(https://www.manatt.com/insights/white-papers/2024/parties-coalesce-around-policy-platforms-after-con
・Editors “Vote for Kamala Harris to Support Science, Health and the Environment”, (2024/9/16) Scientific American HP(https://www.scientificamerican.com/article/vote-for-kamala-harris-to-support-science-health-and-the-environment/
・T. Geoghegan “What are Harris and Trump’s policies?”, (2024/10/23) BBC HP(https://www.bbc.com/news/articles/cwy343z53l1o
・福岡市医師会医療情報室「特集:揺れる米国医療保険制度改革-オバマケアの行方-」(2015/1/30)(https://www.city.fukuoka.med.or.jp/jouhousitsu/report201.html

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔