第58回 ヒト腫瘍アトラス・ネットワーク

1.はじめに

 米国のヒト腫瘍アトラス・ネットワーク(HTAN)は、様々な腫瘍について、その進行に伴う細胞、分子、組織の立体的な変化を表す「3Dアトラス」の編集を行ってきており、その成果が今年10月末 、Nature誌に発表された。今回はこのHTANの目的・背景、今回発表された主要な成果等について分析・考察を行う。

HTANの特集が掲載されたNature誌の表紙

2.HTANについて

 ヒト腫瘍アトラス・ネットワーク(HTAN:Human Tumor Atlas Network)は、米国のビッグプロジェクトである「がんムーンショット(Cancer Moonshot)」イニシアチブの一環として2018年に創設されたもので、米国国立衛生研究所(NIH)傘下の国立がん研究所(NCI)の資金提供を受けている。

 HTANは10の研究センターで構成されており、各種腫瘍から多次元、つまり空間・時間にわたって変化するデータを抽出し、分析し、可視化するツールの構築に共同で取り組んでいる。それにより、腫瘍特にがんが発生し、進行するに従って、治療に対し抵抗性を獲得していくプロセスを解明することを目的としている。

 HTANは、収集・構築した試料、分析方法、ツールを用いて、腫瘍の進行に伴う詳細な地図(アトラス)を作製している。分子、細胞、組織の特徴を空間的・時間的に理解することで、HTANは腫瘍について多次元的な視点から捉えた情報を提供する。

 HTANに参画する研究者のネットワークは、2018年以来、マルチオミックスデータを集積し、新しい分析ツールを適用して、多くの腫瘍について、その複雑な生態系を解明すべく、検討を進めてきた。
 こうして生成されたツールやデータセットは、今後、がんの研究者等が、腫瘍形成のメカニズムを解明していくための貴重なリソースとなる。なお、これら研究者ネットワークの活動を調整するためHTANデータ調整センター(DCC)が設置されており、データやリソースの保管・アクセス・共有のための業務やアウトリーチ活動を行っている。

(注)腫瘍(tumor)とがん(cancer)の違いについて:腫瘍には良性と悪性があり、悪性のものをがんという。がんのうち、特に上皮組織から生じるものを漢字で癌と書き、それ以外の組織から生じるものと区別する。たとえば上皮以外の組織から生じる白血病や骨肉腫はがんであるが癌ではない。

3.今回発表された主要な成果

 今回、HTANの成果として、Nature誌のHPに10件以上の研究が掲載されたが、その主要な成果を以下にまとめた。

(1)数字で見た成果

 これまで収集したり解析を行ったりした対象としては、Nature誌に発表された時点では、21の腫瘍部位に由来する腫瘍について、2,088の症例から8,425個の生体試料が収集され、分析され、14のアトラスが作製されている。(なお、HTANのHPによると、最新のデータとしては、2,147の症例から9,270個の生体試料が収集されている。)

 また、分析に際し、30種ものアッセイ法が用いられた。内訳はバルク・オミックス9種、シングルセル・オミックス3種、画像解析10種、空間オミックス8種である。

数字で見たHTANの成果(Nature誌の記事から)

(注)生体中に存在する物質をくまなく解析していく手法をオミックスと言い、DNA(ゲノム)に着目した場合はゲノミクス、RNA(トランスクリプトーム)の場合はトランスクリプトミクス、タンパク質(プロテオーム)の場合はプロテオミクスと呼ぶ。
 従来は器官・組織ごとに生体物質の状況を解析していたが、近年、1つ1つの細胞を解析して細胞ごとの違いを調べるシングルセル・オミックスという手法が使われるようになってきた。従来のオミックス手法はこれと区別してバルク・オミックスと呼ばれる。

(2)主要な成果

 前記(1)の「数字で見た成果」により得られた具体的な知見を、いくつか紹介したい。

・さまざまながん種の131個の腫瘍切片について、ゲノム、トランスクリプトーム、プロテオームを3次元的に解析した結果が提示された。今後、各国の研究者はリソースとしてこれを用いて、腫瘍とその周辺部の違い等、微小環境に着目して深い洞察を行うことが期待される。

・CRISPR/Cas9のシステムを応用することにより細胞系譜を解析する手法を、マウスの発生と大腸がんモデルマウスに適用した。それにより、マウス胚の発生過程とがん化の過程での細胞増殖のタイミングと増殖する細胞を同定した。
 この結果、がんの初期には増殖部は多様な種類の細胞からなっている(多クローン性)が、進行がんに移行していく際に、この多様性が減少することが分かった。これは、異なる進行段階のヒト大腸がんの試料でも認められた。

・家族性大腸腺腫(大腸に100個以上ものポリープが生じる病気)のマルチオミクス解析から、早期腫瘍形成に関連する分子経路が解明された。
 同疾患患者6人からの93個の試料を用い、正常粘膜組織、良性ポリープ、異形成ポリープについてトランスクリプトーム、プロテオーム、メタボローム(代謝物)、リビドーム(脂質)をそれぞれ調べた。そうして作製されたマルチオミクスアトラスを用いて、大腸癌形成の初期段階におけるゲノム、細胞、分子に起こる変化が明らかにされた。

・転移性乳がん患者60人の生検試料のシングルセルや細胞内の核のRNAシーケンスと4種類の空間プロファイリングにより、患者の転移した部位での遺伝子発現が、時間、転移した部位、各空間プロファイリングによらず元の乳がんから維持されており、外部に現れた腫瘍の特徴が微小環境での特徴と相関していることが明らかにされた。

・シングルセル解析においては、サンプル調製、画像撮影、画像処理、解析に至るまで、さまざまなエラーや誤差により、正確なものからの歪みが生ずる可能性がある。これに対し、CyLinterというソフトウエアを利用することにより、そのような歪みを除去し、データの解析精度を向上させることができることが示された。

4.おわりに

 HTANは、腫瘍特にがんという人類共通の難敵に対し、現代の生命科学の粋を集めて原因解明に取り組むものである。
 がんは時間とともに増幅し転移していくが、そのような時間変化を順を追って正確に把握できれば、その先の予防や治療につながるものが見えてくると期待される。こうした、マルチオミックスによる正確ながんの動態解明は、まさにコンピュータ上での生物学、いわゆるIT生物学にも適用できるものだと思われ、そのデータ、リソースやツールのますますの充実による、世界各国の研究室での利用・発展が望まれる。

 なお、今回の米国大統領選の結果、トランプ氏が次期大統領に就任する見込みとなった。
 同氏は以前から、科学技術のビッグプロジェクトには厳しい目を向けていた。特に、がんムーンショット・イニシアチブはバイデン大統領の肝いりのプロジェクトであるだけに、今後の動向が懸念される。
 だが、このように世界共通の研究リソースを与えるものは、今後の世界の生命科学や医療の発展につながるため、存続していくことを願いたい。

参考文献

“Human Tumor Atlas Network”, HTAN HP(https://humantumoratlas.org/)
・“The Human Tumor Atlas Network (HTAN): exploring tumor evolution in time and space” (2024/10/30), Nature HP (https://www.nature.com/collections/fihchcjehc
・「ヒト腫瘍アトラス・ネットワーク(HTAN):腫瘍の進化を時間的かつ空間的にとらえる」(2024/11/02)crisp_bio (https://crisp-bio.blog.jp/archives/37136130.html

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔