第60回 ヒトの細胞地図づくり

1.はじめに

 本年11月、ネイチャー誌等に、ヒト細胞アトラス(HCA)イニシアチブの成果が公表された。今回は、同イニシアチブの経緯や、公表された研究の内容・意義について分析・考察したい。

HCAの論文が掲載されたネイチャー誌の表紙
詳細な細胞地図上に地下鉄のような生物学的システムのネットワークを重ね合わせることで、HCAイニシアチブの複雑・詳細さを表現している

2.HCAの経緯・意義について

 ヒト細胞アトラス(HCA:Human Cell Atlas)イニシアチブは、全てのヒト細胞の包括的な参照地図を作製する目的で、2016年に設立された。
 このイニシアチブは、草の根主導のオープンな科学プロジェクトで、現在、世界102か国から3,600人余りの研究者が参画している。資金提供者も多く、米国国立衛生研究所(NIH)、米国のチャン・ザッカ―バーグ財団(CZI)、英国ウエルカムトラスト、中国科学技術部、中国国家自然科学基金委員会(NSFC)等、多数の政府機関や財団が支援している。

 細胞は生命の基本単位である。ヒトの体には約37兆個の細胞があり、それぞれの細胞が特定の働きを持ち、役割を果たしている。細胞の種類しては、大きくは心筋、神経細胞等、約200種類あるとされるが、さらに細かく調べると、何千もの細胞のタイプが存在することが分かってきた。

 HCAは、これら膨大な、様々なタイプの細胞の一つ一つに対する詳細情報を盛り込んだ人体地図になる。ただし、その目標は単に細胞のタイプを羅列した長大なリストを作ることではない。一つ一つの細胞の中で活性化している遺伝子を解析し、各種の細胞が体のどこに存在するかを特定し、細胞間の分子等のやり取りを解明することである。

 最終的には、全世界の場所の地形や地物を探すとのできる「グーグルマップ」のように、キーワードを入力するだけでヒトの全細胞の中から、目的に合った細胞とその情報を全て検索できるようにすることを目指す。また、こうした地図の作製により、ヒトの身体の理解だけでなく、疾患の診断や治療の支援にもつながることを目的としている。

 HCAコンソーシアムは、これまで、世界中の約1万人から集めた約1億個の細胞を調べ、一つ一つを詳細に分析してきている。また、次図に示すように、18個の生物学的ネットワークを構築している。

HCAを構成する18の生物学的ネットワーク (出典:ネイチャー誌HP)

 同コンソーシアムは、今後1~2年以内にヒトの細胞地図全体の初稿を完成させたいと考えており、最終的には全ての臓器と組織にわたる数十億個の細胞が含まれるようになると思われる。

3.今回の研究成果について

(1)全体の概要

 本年11月、HCAコンソーシアムは、いくつかの初期概要マップを、分析ツールとともに、ネイチャー・ポートフォリオの出版誌およびゲノム・バイオロジー誌に、一連の論文として発表した。論文数は合計で約40本にもなり、うち6本はネイチャー誌に発表された。

 今回発表された成果を大きくまとめると、次の通りである。

①ヒトから収集された試料から得た細胞における、プロファイルすなわち分析結果のデータが示された。ウエブサイト上では、約9,100人のドナーから収集された約6,200万個の細胞データが分析済みである。特に、HCAを構成する18のネットワークのうち、肺、神経系、眼の3つについては、ドラフトとしてまとめられている。

②上記①に述べた細胞データを、分析に使うためのAIツールが開発された。ディープラーニングを利用したscTabというソフトウエアの開発により、単一細胞でのRNAシーケンス等からの細胞タイプの注釈づけを踏まえた細胞のタイプの推定が容易になった。またSCimilarityというソフトウエアを用いることにより、研究者は1つ1つの細胞のデータセットを比較して、さまざまな組織で類似した細胞の種類を識別できるようになった。

③上記①の細胞データや上記②のAIツールを用いて、研究者らはそれぞれの観点から研究を行った。著者の印象に残ったものは次の(2)で述べるが、全体としては、胎盤や骨格の形成過程、脳の成熟過程の変化、腸及び血管細胞の状態、新型コロナウイルスに対する肺の反応、遺伝的変異が疾病に及ぼす影響等、多様な成果が含まれている。

(2)著者の印象に残った個別の研究成果

 ここでは、HCAとして作製された細胞マップや分析ツールも利用して、個々の観点から行われた研究の主要な成果を箇条書きで述べる。

①英国ケンブリッジ大学の研究者らは、胎児の発達における骨や骨格の発達についての細胞地図を示した。これにより、軟骨が骨の成長の枠組みとして果たす役割について分析した。
 また、頭蓋骨の形成時に、遺伝子変異によって新生児の頭蓋骨の早期融合が引き起こされ、脳の発達が制限されていくメカニズムを示した。
 さらに、初期の骨細胞で活性化される特定の遺伝子が、成人後に股関節炎を発症するリスクと関連している可能性があることも発見した。

②英国ウエルカムトラスト・サンガ―研究所の研究者らは、健康な腸組織と疾病の腸組織を細胞レベルで比較した。それにより、腸の炎症に影響を与える可能性のある腸細胞のタイプを解明した。また、潰瘍性大腸炎やクローン病に関連する細胞変化を解明した。

③米国ハーバード大学の研究者らは、胎盤細胞の地図を示した。胎盤がどのように発達し、胚に栄養分を供給する保護する役割をするのか、細胞レベルで突き止めた。

④スイスのチューリッヒ連邦工科大学の研究者らは、脳オルガノイド細胞地図を開発し、それにより、脳の発達過程をオルガノイドでどこまで再現できるかについて洞察を示した。

⑤米国マサチューセッツ総合病院の研究者らは、新たなタイプの肺細胞を発見した。この細胞は、淡水魚のエラやカエルの皮膚に見られる浸透圧調整機能を持つ細胞に似ていた。この細胞で発現量の多いCTFR遺伝子に特定の変異が起こることで、嚢胞性線維症の原因になる可能性を示した。

4.本成果の意義

 HCAの説明のところでも述べたが、細胞は人体の最小の構成単位であり、組織・器官そしてヒト個体がどのように構成されているかを理解する基本になる。さらに、ヒトの発生・分化や成長に伴う変化を細胞レベルで知ることは大切である。その意味で、これら全てを包含した細胞のマッピング作製の意義は極めて大きい。

 そしてこれらは、疾病の原因解明や治療法の発見にもつながる。現段階でも、本研究により、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)、嚢胞性疾患などの疾患について貴重な洞察がもたらされている。また、発達障害、出生前発症の小児疾患、および成人に影響を与える疾患の研究においても成果を出している。

 いったんこのような細胞地図が完成したら、そのデータを利用してのin silicoすなわちコンピューター上での研究も進み、生命科学の研究のやり方が大いに変わるのではないかと思われる。実際に、本研究では、AIや機械学習などの新しいデータ分析ツールが使用されており、HCAのデータにより、ChatGPTのような基本モデルをトレーニングして、新しい細胞を特定して分析したり、数百万の細胞記録の中から細胞を検索したりできるようになってきている。

 今後、これを用いて、各疾患の細胞間の予期せぬ関連性の発見が加速され、治療法の発見や適用に役立つことになると思われる。

5.おわりに

 生体中の特定の対象について網羅的に解析を行う、いわゆるオミックス系のさまざまなイニシアチブについては、これまでのニュースレターで何度か紹介してきた。

 それらの中でも、このHCAイニシアチブは、ヒトの全細胞についての詳細な地図を作るという意味では、その規模や、そのために研究者や技術者が費やす労力、さらにそれから得られる成果も群を抜いていると思われる。そのさらなる進展に期待したい。

 なお、本イニシアチブには、理研等日本の研究者も参加しているが、(著者の見落としかもしれないが、)論文の主体にはあまりなっていないと思われる。草の根方式の研究だからかもしれないが、日本の機関からの財政的支援もあまり見受けられない。

 データ作りにおいて諸外国から遅れをとることで、今後それを用いた研究にも遅れが生じることが懸念される。日本としてもこのような事態を払拭すべく、かかる活動には積極的に参加していくことを期待したい。

参考文献

・“The Human Cell Atlas:towards a first draft atlas”, (2024/11/20) Nature HP

https://www.nature.com/immersive/d42859-024-00060-5/index.html

・「全ヒト細胞アトラスの作成」(2024/11/20)Nature asia HP

https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15097

・“Human cell atlas achieves leap in understanding of the human body” (2024/11/20) Uuman Cell Atlas HP

https://www.humancellatlas.org/news/human-cell-atlas-achieves-leap-in-understanding-of-the-human-body/

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔