第64回 トランプ大統領の生命科学政策
1.はじめに
今年1月20日、D.トランプ氏は第47代米国大統領に就任した。だが就任に伴い、その生命科学に対する消極的姿勢が早くも明らかになった。生命科学関連機関の人事、生命科学分野への資金拠出、さらにWHOからの脱退等、大きな決定がなされつつある。
今回はそれらについて、背景や影響等も含め分析・考察したい。
2.生命科学関連機関を巡る人事
トランプ政権は、生命科学に関し、どのような推進体制を取ろうとしているのか。これは、推進体制というより、推進抑制体制と呼んだ方がよいかもしれない。
まずトランプ大統領は、保健福祉省(HHS)の長官にR.F.ケネディ・ジュニア氏を指名した。HHSは日本の厚生労働省に当たる行政機関で、そのヘッドである長官は日本の大臣に相当する。国立衛生研究所(NIH)、疾病管理予防センター(CDC)、食品医薬品局(FDA)等を傘下に持つ。
ケネディ氏は、新型コロナウイルス対策に批判的、特にワクチンの安全性や効果に批判的なことで知られている。同氏は長官指名前、NIH職員600人を解雇し、新規採用すると述べていた。NIHは2万人近くの職員を雇用しており、任期に伴う職員の新陳代謝も毎年行われてはいる。だが、自身の考えにそぐわない者を強制的に解雇するとしたら、これまでは連邦政府の中ではありえても傘下の機関ではあまり聞いたことがない。また同氏は、NIHの重点を新型コロナなどの感染症から、糖尿病等の慢性疾患の治療法開発に移行することを目指すとのことであり、国際的な感染症対策を軽視気味のトランプ大統領と波長が合っているよう思われる。
また、トランプ大統領は1月26日、NIH長官として、J.バッタチャリア氏を指名した。同氏は1997年にスタンフォード大学医学部を卒業し、さらに2000年に同大経済学部で博士号を取得した。同氏も米国の新型コロナ対策に批判的で、パンデミック中のロックダウンに反対した。そして2020年10月には「グレート・バリトン宣言」を発表し、ウイルスに感染しにくい人は普通の生活に戻るよう呼びかけた。これまたトランプ大統領とは波長が合うと思われる。
3.生命科学分野への資金拠出
(1)グローバル・ヘルスへの資金拠出の停止
米国はWHO、世界エイズ・結核・マラリア対策基金、Gaviワクチンアライアンス、大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)などへの多額の資金拠出国である。これらを国際保健(グローバルヘルス)活動という。
トランプ大統領は就任初日の1月20日、対外開発援助の効率性と外交政策との一貫性評価を行うとして、90日間の援助停止を指示する大統領令に署名した。この時点ではその対象や範囲等が正確に決まっていなかったものの、グローバル・ヘルス関係のプロジェクトは暫定的に停止された。これにより、実際にこれらの活動に世界各国で従事していた関係者らは悲鳴を上げた。
その後1月29日に、M.ルビオ国務長官が、命を守るための人道援助については停止を保留することを承認し、発表した。停止を保留するのは臨時的措置であること、停止が保留されるのは「命を守る医薬品、医療措置、食料、シェルター」等に限られ、新たな契約を結ぶことは認めないこと等、保留する事項の詳細も布告されている。
なお、この「命を守るための人道援助」には、これまでPEPFARで治療を受けていた人々へのHIV治療薬供給が含まれるものと解されている。だが、グローバル・ヘルス全体に適用できるというわけではなく、適用には個別の判断が必要であり、このため、その間に職員の大量解雇等、悪影響が出始めている。
(2)NIHへの資金拠出
国立衛生研究所(NIH)は、2024年度の予算が457億ドルに達する世界最大の医学・生命科学の研究機関である。NIHは、それ自身も研究機関として医学・生命科学の研究を行っているが、予算全体のうちメリーランド州ベセスダにあるNIHのキャンパス自体での研究に割り当てられるのは10%で、80%は外部の機関・研究者の研究に助成金等として提供されている。なお残り10%は管理費やサポート費等に使用されている。
トランプ政権は、このNIHに対し、(同政権が考える)余分な活動を縮小させる方向で改革を行おうとしており、既に部分的に始められている。
トランプ政権の第1期においても、NIHに対する予算を大幅に削減しようとした。だが、生命科学研究を重視する超党派により予算削減を阻まれ、むしろ任期中は少しずつ増加した。
しかし、今回はどうか。第1期では、コロナ対応に失敗した結果、世界でも突出した100万人以上の死者を出した。それにもかかわらず、いやかえって意地になっているのか、第2期では特に世界と連携した感染症対策を軽視する姿勢を強く打ち出している感がある。
その手始めとして、今回の大統領就任後、トランプ政権はNIHを含むHHSの機関に対し、外部への情報発信の禁止、雇用の凍結、出張の中止といった大統領命令を出した。NIHではこれを受け、内外の研究者の研究助成金審査、渡航、研修等が中止された。諮問委員会の会合がなければNIHの研究助成金を交付できず、少なくとも予算の80%が一時的に凍結されることになる。NIHの広報によると、これは、新しいチームがレビューと優先順位付けのプロセスを設定するための短期的な一時停止だとのことであるが、その影響は予想以上に大きい。
このうち、外部への情報発信の禁止措置は2月1日まで行われることになっていた。これには新たな規制やガイダンスの発表、助成金についての報告、ソーシャルメディアへの投稿、プレスリリース、その他国民とのコミュニケーションの公開停止、講演活動のキャンセル等が含まれる。
なおこれらとの関係は不明確だが、NIHの科学審査センター(CSR)の中にあるスタディ・セクションは、新しい助成金申請者を審査し、学術研究への資金配分を指示する重要なステップだが、ほとんど予告なしに廃止された。また、同研究所のサイトから、多様性プログラムと多様性関連の助成金に関するウエブページが削除された。これら、トランプ政権の影響が色濃く出ていると感じざるをえない。
2月9日時点でもこうした措置の大部分は継続しており、研究者らの焦燥感はつのっていると思われる。
4.WHOからの脱退
トランプ大統領は就任初日の1月20日、世界保健機関(WHO)から脱退する手続きを進める大統領令に署名し、WHOからの離脱を表明、米国議会に通告した。通常、脱退の場合は通告から1年間猶予期間が置かれるため、このまま撤回されないのであれば、来年1月には正式に脱退することとなる。
WHOについては、同大統領は政権1期目の終わりにも、新型コロナウイルスを巡る対応が中国寄りだと批判し、脱退することを議会に通告した。だが実際にはバイデン前大統領が猶予期間内だった就任初日にこの方針を撤回した。しかし、今回はどうか。
トランプ大統領は、脱退理由として2つのことを挙げている。一つは、WHOが2020年の新型コロナウイルスの感染拡大等で、発生元である中国に気を遣うあまり、世界的な衛生上の危機への対応を誤ったこと、もう一つは、人口が米国の約4倍の中国に比べ、米国に要請される拠出額が多額なことを挙げた(同大統領は、米国が年間5億ドルに対し、中国は3,900万ドルと言及した。ただしこれはどこから取った数字か不明)。
米国はWHOの最大の資金提供国である。2022年から2023年の2年間で12億8,000万ドル拠出し、WHOの総予算の14.5%を負担している(国連への拠出金は2年単位で計上されているようである)。
なお2番目の資金拠出国はドイツで、同じ期間に8億5,000万ドルを拠出した。本年1月31日付けの日経新聞の記事(会員限定)によれば、中国は米国、ドイツ、英国、カナダ、日本、フランスについで世界第7位の拠出国であり、金額的には日本やフランスとほぼ同額の1億5,000万ドル前後であるという。
この拠出金は、全ての加盟国に義務付けられている分担金と、各国又は団体の自由意思で拠出する任意の拠出金の2種類からなる。
分担金の額は各国の国内総生産(GDP)や人口等に基づいて算出され、このルールに従えば、米国の分担金は1億3,000万ドル、中国は8,760万ドルになる。つまり、前述の2年間12億8,000万ドルと比較すると、米国がWHOに実際に拠出している資金は本来要請される分担金より明らかに多く、一方、中国の拠出金はやや少ないように思われる。
米国が多いのは、任意拠出金によるものである。具体的には、前述の米国政府のグローバルヘルス活動予算の一環としてのWHOへの資金拠出等がある。下図は2020-2023年の4年間の任意拠出金の合計額だが、これも米国が最大拠出国になっている一方、中国は順位が低い。
なお図からも分かるように、米国は政府とは別に、ビル&ミリンダ・ゲイツ財団が大きな資金提供を行っている。これらを考えると米国の資金がWHOの活動にとって不可欠のものであることが分かる。

WHOはこれを受けて早速、1月21日に、トランプ大統領の決定は遺憾だとして再考を求める声明を出した。同声明では、「WHOと米国は数えきれないほどの命を救い、米国民と世界の人々を健康上の脅威から守ってきた。」と指摘し、その上で「米国が考え直すことを願っている。(再考に向けた)建設的な協議を期待している。」と強調した。しかし、実際に米国が脱退すると財政状況が極めて厳しいものになることは間違いない。
その後の情報では、WHOは、最も重要な分野を除いて職員の採用を凍結し、出張経費も大幅に削減する。さらに、特別な理由がない限り会議はオンラインで行い、加盟国への技術的な支援は最も重要なものに限定するとのことである。
これに対し、トランプ大統領は、25日、ネバダ州ラスベガスでの演説の中で、もし米国の資金拠出の割合が中国並みに引き下げられれば、おそらく再検討すると述べ、見直しの可能性にも触れた。ただ実際に分担金が義務付けられている以上、WHOも米国だけを特別扱いするわけにはいかないだろう。かといって任意拠出金を全く出さないことになる場合、WHOが財政的に苦しい状況は続くことになると思われる。
5.おわりに
米国の生命科学研究を巡る混乱については、しばらくは続くと思われる。最終的には超党派による働きかけ等により収拾される可能性があるとは言え、この混乱が続いている間は研究の実施や支援がストップするなら、それは大きな問題である。臨床試験等、命にかかるものが制限されることで、治療法の開発等を心待ちにしている患者や喫緊のワクチン開発・供給が必要な感染症蔓延国の人々などが犠牲になることになる。
米国は生命科学・医学研究においては世界を先導しているが、政策の混乱による同国での研究の停滞は、競争的観点から日本や他国に有利かというと、そのようなことは決してない。新たな発見や技術開発が世界の人々の命を救うということで、行われている国際プロジェクト等に支障が出ないようにしてもらいたいと思う。
なおWHO脱退についてのその後の動きはあまり把握できていない。だが、最大拠出国である米国の離脱は、WHOが各種政策を行うための資金面での欠乏を招くだけでなく、ワクチン等各種医薬・医療技術のリーダーである米国とのパイプがなくなることで、パンデミック等感染症対策での国際連携にも大きな影響が出ることは間違いない。実際、このニューズレターを書いている2月6日にも、米国に倣いアルゼンチンも脱退を表明したとのニュースが流れた。連鎖反応が起こらないか懸念している。
米国の脱退が実際に行われる来年1月までの猶予期間のあいだに、トランプ政権が見直しを行うよう期待したい。
参考文献(下記は一例。その他多くの文献・資料等を参考にした)
・“World Health Organization HP”(https://www.who.int/)
・L.Oldach, (2025/01/29), “US funding freeze memo rescinded, NIH confusion persists”, c & en HP (https://cen.acs.org/policy/US-funding-freeze-memo-rescinded/103/web/2025/01)
・M. Kozlov (2025)“‘Never seen anything like this’: Trump’s team halts NIH meetings and travel”, Nature HP (https://www.nature.com/articles/d41586-025-00231-y)
・(2025/1/31)“WHO、米「脱退」表明で綻び コロナ「緊急事態」から5年” 日本経済新聞HP(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO86422280Q5A130C2FF8000/)
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔