第86回 2025年の科学10大ニュースとライフサイエンス
1.はじめに
ライフサイエンスの世界で2025年にどんな大きな出来事があったか。サイエンス誌やネイチャー誌は、毎年年末になると科学の10大ニュースを発表している。今年もそうなので、その中からライフサイエンス関連のどんな内容がランクインしているか調べた。
2.サイエンス誌の評価

(1)2025年の10大ニュース
サイエンス誌は2025年のブレイクスルー・オブ・ザ・イヤーに、以下の10件のニュースを掲げた。そのうち〇を付けた 6件は、ライフサイエンス関連だと思われるものである。
(第1位)
・再生可能エネルギーの進展(特に中国での成長)
(以下は次点(横並び))
〇超希少疾患に対する個別化遺伝子編集治療
〇有効な淋病治療薬の出現
〇がん細胞の増殖・転移へのニューロンの寄与の仕組みの解明
・チリへの全天を見渡す新型望遠鏡の設置
〇頭蓋骨がデニソワ人であることが判明
・AIの大規模言語モデルによる科学の進展
・格子ゲージ理論によるミューオンの磁性の計算
〇異種臓器移植による生存記録の更新
〇耐熱性のコメの開発
以下、ライフサイエンス関係について簡単に説明する。
①超希少疾患に対する個別化遺伝子編集治療
米国ペンシルベニアの研究者や医師らは、カルバモイルリン酸合成酵素1(CPS1)欠損症という、タンパク質の処理能力に障害をきたす希少疾患をもった赤ん坊(KJ マルドゥーン)に対し、同疾患に特化した、塩基編集(遺伝子内の塩基を入れ替える編集方法)を用いた治療法を開発・適用した。するとその症状が改善した。今後規制の簡素化等に伴い、これまでは多数の異なる変異に起因するため治療が困難だと考えられていた他の希少疾患にも本技術の適用・実用化が期待される一方、高額な費用や安全性等解決すべき問題も残る。
②有効な淋病治療薬の出現
今年、2種類の淋病治療薬が大規模臨床試験で有効性を示し、米国食品医薬品局(FDA)の承認を得た。一つはGSK社が開発したゲポチダシンで、同薬は既に尿路感染症治療薬として承認されているが、第3相試験で淋病に対しても効果があることが確認された。もう一つはイノビバ・スペシャリティ・セラピューティクス社らが開発したゾリフロダシンで、同じく第3相試験で効果が確認された。
➂がん細胞の増殖・転移へのニューロンの寄与の仕組みの解明
腫瘍はニューロンを含む様々な体細胞を誘導することにより、自身の成長や転移を促進する。これに関し、研究者らは、神経細胞が、細胞エネルギーを供給する細胞小器官であるミトコンドリアをがん細胞に送り込むことにより、がん細胞が過剰に活性化され、体の他の部位に転移しやすくなることを解明した。これにより、ミトコンドリア導入を阻害することによりがん細胞の転移を遅らせることが期待される。
④頭蓋骨がデニソワ人であることが判明
2010年にシベリアのデニソワ洞窟で発見された指の骨片等の解析からデニソワ人の存在が明らかになったが、これまでは完全な個体や頭蓋骨が存在しなかったため、デニソワ人の容姿を知ることは困難だった。しかし、中国の研究者らが、ハルビンで数十年前に発見された古代の頭蓋骨からDNAを採取して調べたところ、デニソワ人のものであることが判明し、彼らは太い眉稜、厚い骨、強力なあご等の特徴を持つことが分かった。
⑤異種臓器移植による生存記録の更新
米国ニューハンプシャー州で、遺伝子操作によって69個の遺伝子を改変したブタの腎臓が男性患者に移植され、9か月近く機能した。また中国でも6個の遺伝子を改変したブタの腎臓が女性患者に移植され、同様な期間機能した。今後、さらに生存期間を延ばすため、追加の遺伝子改変や、拒絶反応を抑制するための安全で効果的な薬剤開発等が試みられている。
⑥耐熱性のコメの開発
中国の研究者らは、酷暑の地域でイネを栽培し、生育の良かった品種どうしを掛け合わせることにより、品質維持や耐熱性にかかわるQT12という遺伝子を特定した。これを市販のイネ品種に導入したところ、収量が大幅に向上した。今後、暑さに弱いジャポニカ種等への適用が期待される。
(2)2025年のネガティブなニュース
サイエンス誌はまた、2025年のネガティブなニュースについて次の3件を挙げており、このうち2件がライフサイエンスに関連するので簡単に紹介する。
〇トランプ大統領により米国の科学界が混乱
〇国際保健への支援削減による危機
・AI利用による論文乱造
①トランプ政権により米国の科学界が混乱
(特にライフサイエンス関係について)米国トランプ大統領は今年1月の就任後、国立衛生研究所(NIH)や国立科学財団(NSF)に対する、多様性、公正性、包摂性、気候変動、性自認・性的指向に関わると判断された数千もの既存プロジェクトを中止させた。また科学機関の数千人の職員を解雇や辞職に追いやった。特に、ワクチンに反対する米国保健福祉省(HHS)のロバート・F・ケネディ・ジュニア長官は、NIH、FDA、疾病予防管理センター(CDC)の幹部や諮問委員会を、自分の意向に沿った者らにすげ替え、政策や制度も変更している。
なお研究者らによる抵抗もあり、科学機関の助成金に対する間接費削減要求は法廷闘争で却下されたほか、今年度予算は何とか使い切れている。
②支援削減による国際保健の危機
米国トランプ政権は今年1月、国際保健分野への100億ドル以上の支援を含む全ての対外援助を凍結し、米国国際開発庁(USID)を解体した。これにより食料や医薬品の供給が停止され、米国内外で数千人の人員削減が生じた(一部資金は復活)。また、フランス、ドイツ、英国、オランダ、フィンランドも、国防費増額のための資金確保を理由に援助額を大幅に削減した。
これにより、世界保健機構(WHO)のほか、各種支援機関は大きな打撃を受けている。
2.Nature誌の評価

(1)2025年の10人の人物
一方、ネイチャー誌には2025年に科学の世界で目立った働きをした人物10名を「Nature’s 10」として掲げた。そのうち〇を付けた7名は、ライフサイエンス関連と思われる人物である。
〇スーザン・モナレス(Susan Monarez):科学に対する信念を貫いた米国疾病予防管理センター所長
・アチャル・アグラワル(Achal Agrawal):インドにおける研究不正行為の摘発に尽力した研究者
・トニー・タイソン(Tony Tyson):世界最大のデジタルカメラを有する望遠鏡の開発を主導した米国の物理学者
〇プレシャス・マツォソ(Precious Matsoso):プロテアソームの研究により新たな免疫システムを発見したイスラエルの科学者
〇サラ・タブリジ(Sarah Tabrizi):ハンチントン病の遺伝子治療を進めるイギリスの神経科医
〇孟然都(Mengran Du):超深海の探査により新たな生態系を発見した中国の地質学者
〇ルチアーノ・モレイラ(Luciano Moreira):ブラジルでネッタイシマカを用いて病気の撲滅を推進している研究者・実業家
・梁文鋒(Liang Wenfeng):AIの開発・商用化で世界を先導するDeepSeek社の創設者
〇イファット・メルブル(Yifat Merbl):初のパンデミック条約の締結に貢献したWHOグループの共同議長
〇KJ マルドゥーン(KJ Muldoon):初の個別化遺伝子編集治療を受けた赤ちゃん
①スーザン・モナレス
モナレス氏はトランプ政権において米国疾病予防管理センター(CDC)長官に指名された。彼女はそれまで20年間、超党派の政府科学者として活動してきた。
しかし彼女の長官就任後、ワクチンを否定する保健福祉省(HHS)のロバート・F・ケネディ・ジュニア長官から、FDAの主要科学者の解雇や、科学データの検討なしにワクチンを事前承認するよう命じられた。このため、就任1か月にも満たない本年8月、それに反発する形でCDC長官を辞任し、またそれに賛同するCDC幹部も追随した。その後、上院で行われた公聴会で彼らはその経緯を公にした。
なお現在、HHS副長官のジム・オニール氏がCDC長官代行を務めている。
②プレシャス・マツォソ
本年5月、190か国以上のWHO加盟国が、パンデミックの予防、対応等の指針を示したパンデミック条約を採択したが、南アフリカ共和国のウィットウォーターズランド大学のマツォソ氏は、WHOグループの共同議長として、さまざまな戦術を用いることによって、同条約の成立に大きく貢献した。
なお同条約には60か国による批准が必要であり、それには今後数か月~数年かかる見込みである。
➂サラ・タブリジ
英国ロンドン大学のハンチントン病センター所長の精神科医タブリジ氏は、ハンチントン病に対する初めての遺伝子治療薬AMT-130を開発し、臨床試験を行った。同治療薬は、脳細胞をゆっくり破壊していく変異タンパク質の産生を抑えるもので、患者12人に対し行った結果、3年間での機能低下が75%も遅くなった。
④孟然都
中国科学院深海科学工程研究所の地質学者である孟然氏は、海底下9km以上の海中を航行できるフェンドゥーゼ潜水艇に搭乗しつつ超深海の探査を行っている。
昨年、日本北東部の千島・カムチャッカ海溝の底で、動物が生息する最深部の生態系を同海域で初めて発見し、今年その詳細を報告した。それにより同生態系は太陽光によりエネルギーを得る界面表層の生物と違い、海底から湧き上がる流体に溶解したメタン、硫化水素、その他の化合物からエネルギーを得る化学合成微生物が中心となっていることがわかった。
⑤ルチアーノ・モレイラ
ブラジルのオズワルド・クルス財団の研究員であるモレイラ氏は、ボルバキアという細菌に感染させたネッタイシマカを野に放つことにより、蚊のデング熱ウイルへの感染を抑え込もうとしている。同氏はオーストラリアの研究室でのネッタイシマカでの研究経験を踏まえ、ブラジルに大規模な製造工場を設置し、同国でのデング熱の撲滅を目指している。
⑥イファット・メルブル
イスラエルのワイツマン研究所で働くメルブル氏は、プロテアソームの研究で大きな成果をもたらした。プロテアソームとは、細胞内で不要になったり、損傷したりしたタンパク質を選択的に分解する巨大な酵素複合体である。彼女はプロテアソームにより分解されてできるペプチド配列を既知のペプチド配列と比較することで、多くのペプチドが抗菌作用を持つことを発見した。さらに、コンピュータモデルを用いてヒトのタンパク質をペプチド断片に分解するシミュレーションを行うことにより、27万種以上の抗菌剤が存在する可能性を発見した。
⑦KJ マルドゥーン
サイエンス誌の①の記事と同じ。塩基編集治療を施された赤ちゃんの名前。
(2)2025年の注目すべき人物
さらに、ネイチャー誌は2025年に注目すべきイベントに関連して、以下の7名を挙げた。そのうち〇を付けた2名は、ライフサイエンス関連である。
・リード・ワイズマン:月周回飛行等を予定する米国NASAのアルテミスⅡミッションの司令官
〇ジョージナ・ロング:オーストラリア・シドニー大学の腫瘍内科医。悪性度が高く治療困難な脳腫瘍に対する免疫療法の開発に貢献。現在臨床試験中。
〇アマドゥ・サル:仏パスツール研究所の研究者。アフリカのセネガルにおいて、MADIBAという、疾病への予防接種等を進める複合施設の建設に尽力。
・アリス・シャン:米国シアトルのソニーAにおいて、AI倫理担当のグローバルヘッドとして活躍。
・コレット・デラワラ:米国のStand up for Science(科学のために立ち上がろう)という組織の中心人物。米国政府による国の科学事業に対する弾圧に抵抗する意向。
(3)一年間のまとめ
ネイチャー誌は例年にない試みとして、今年一年間に起きた科学上のイベントを月別に紹介した記事を掲載した。それを簡単に整理すると以下のとおり。なお〇はライフサイエンス関連
・1月:小惑星ベンヌの試料に古代の塩水からの塩が含まれていることを確認
〇2月:遺伝的に同等なニューロンが発現時に異なる機能や形態を持つことの発見
〇3月:投げ縄型の新たなタイプの抗生物質を発見
・4月:ねじったり圧縮したりできる折り紙を模したメタマテリアルの開発
・5月:今後の世代の熱波にさらされるリスクは急上昇することが予測
・6月:デジタル方式のマスクで絵画を覆うことによる修復効率の格段の向上
〇7月:遠くの場所を符号化して処理する脳・ニューロンの仕組みを発見
・8月:AIが超粘着性の水中ゲルの設計を支援
〇9月:女王アリが本来と異なる種類の子供を産むことを発見
〇10月:論争中の化石の正体がティラノサウルスでなくより小型の恐竜だったことが判明
・11月:インドでの調査により豪雨による被害が最も大きい脆弱層が判明
・12月:宇宙望遠鏡からの写真には人工衛星が写り込む
①遺伝的に同等なニューロンが発現時に異なる機能や形態を持つことの発見
イスラエルの研究者らは、ゼブラフィッシュの脳を用いて単一細胞RNAシーケンシングを実施、視蓋のニューロンを66のトランスクリプトームタイプに分類し、関節刺激に対する視蓋ニューロンの応答を記録した。それにより、遺伝的に同等なニューロンでも、分化の過程で機能や形態が異なってしまうことを発見した。
②投げ縄型の新たなタイプの抗生物質を発見
カナダ・マクマスター大学の研究者らは、アシネトバクター・バウマニに対する抗菌化合物であるラリオシジン(LAR)を発見した。LARはその形状から、ラッソー(投げ縄)ペプチドとして知られているが、細胞内のタンパク質合成装置であるリボソームを阻害する例としては初めて。
➂遠くの場所を符号化して処理する脳・ニューロンの仕組みを発見
動物は特定の場所にいると、脳の海馬の場所細胞が発火して場所を認識することが分かっている。米国コロンビア大学の研究者らは、鳥類のアメリカコガラを用いることにより、特定の場所にいる時だけでなく、離れたところからその場所を見た時にも海馬が付合化することを発見した。これにより「遠隔場所符号化」ニューロンが、視覚処理と空間処理を統合すると考えられる。
④女王アリが本来と異なる子供を産むことを発見
フランス・モンペリエ大学の研究者らは、イベリア収穫アリ(Messor ibericus)の女王アリが、同種のオスと別種のオスの2種類のオスの子孫を生む能力を持つことを発見した。M. ibeicusの卵がM. structorの精子と受精した後、M.ibericusの核DNAを失うことで、M.structorになる。そして M. ibericusの女王アリはM. structorのオスがいない状況でM. structorのオスを生むことができる。
⑤論争中の化石の正体がティラノサウルスでなくより小型の恐竜だったことが判明
かつて米国モンタナ州で発見された恐竜ティラノサウルスの頭蓋骨について、数十年にわたり、幼いT. レックスのものか、それとも別の小型種(ピグミー・ティラノサウルス)なのかを巡って論争がなされてきた。その後2001年により完全な骨格が発見されたが、本年、米国ノースカロライナ州立大学の研究者らはその分析結果を報告し、後者が正しいことを決定的にした。
4.Nature Biotechnology誌の評価

これまで本ニューズレターでは紹介していなかったが、Natur誌の系列誌であるNature Biotechnology誌においては、年末にその年の10大ニュースを発表している。今年も発表されたため、それぞれ簡単にまとめる。
①TCR治療薬によるHIV治療の推進
潜在的にHIV-1保有する細胞を除去することを目的とした初のT細胞受容体(TCR)治療薬が初期臨床試験でよい成果を収めた。これは、「リザーバー」という、HIVが持続的に感染しているCD4+細胞を除去することを目的としたもの。現状では、抗レトロウイルス療法(ART)により、HIV感染者でも普通の生活を送れるようになったが、ARTではCD4+を撃退できず、リザーバー内部で変異して免疫系を逃れるHIVを根絶できなかった。これに対し、TCR療法は、普通の抗体療法と違い、細胞表面だけでなく細胞内部のタンパク質も認識して攻撃できる。
②精密遺伝子編集医療の進展
サイエンス誌の10大ニュースの①や、ネイチャー誌の10人の⑦の記事と同様の内容。なお、塩基編集(遺伝子内の塩基を入れ替える編集方法)については、本年3月、ビーム・セラピューティクス社がα-1アンチトリプシン欠乏症に対する臨床試験結果を、また4月にはヴァーヴ・セラピューティクス社が家族性高コレステロール血症に対する臨床試験結果を発表した。またプライム編集(ゲノム内に遺伝子を導入する技術)については、本年5月、プライム・メディシン社が慢性肉芽腫症に対する試験結果を発表した。いずれも経過良好であるとのこと。
➂次世代の空間トランスクリプトミクスが進展
空間トランスクリプトミクス、つまりDNAから遺伝子情報を写し取るメッセンジャーRNA(mRNA)の全解析を三次元的に行う手法が改良され、単一細胞の解像度で全トランスクリプトームのプロファイリングが可能になりつつある。特に、いくつかの企業によって市場化が進展し、臨床研究への空間トランスクリプトミクスの適用範囲が広がった。
➃個別化mRNAワクチンの進展
研究者や企業は、膵臓がん、腎臓がんその他の固形腫瘍に対し、当該腫瘍で生じた変異に対応する抗原をコードする個別化mRNAを作製し、ワクチンとして摂取する研究を進めている。このうちモデルナ社とメルク社の悪性黒色腫に対するmRMA-4157は最も進んでおり、臨床試験結果についての最初の発表は来年と見込まれている。
⑤低コストCAR-T療法の開発
ブラジルでは、ラテンアメリカとしては初めて、自国で低価格のキメラ抗原受容体(CAR)-T細胞療法が開始された。実施主体は米国を拠点とするケアリング・クロスという非営利団体で、先進的な治療法を手ごろな価格にすることに注力している。彼らはこのブラジルのモデルを今後、トルコと中東に拡大する計画を立てている。患者のT細胞を改変してがん細胞を攻撃する自己CAR-T療法の費用は通常1回あたり50万ドルを超えるが、その努力により3万5,000ドルまで引き下げられてきている。
⑥AIモデルの共有化による性能の向上
本年9月、イーライリリー社は、自社の持つ機械学習モデル(ML)を各バイテク企業に利用させるTuneLabイニシアチブを開始した。こうして各利用企業から実際のデータを受け取ることにより、さらにモデルの性能を向上させることを考えている。このような試みはこれに限らず、各種生成ML、大規模言語モデル(LLM)等で行われている。
⑦FDAは動物実験の代替を推進
米国食品医薬品局(FDA)は、4月に発表されたロードマップによると、医薬品安全性試験の前臨床試験において、動物実験の代替となる革新的な手法を導入する予定である。具体的には、臓器チップ(Organ-on-a-Chip)、計算(in silico)モデリング、オルガノイド、その他のin vitroアッセイ等を推奨し、3~5年以内に動物実験を標準的なものではなく、例外的な位置づけとなるよう削減していくことを目指す。
⑧マークス氏がFDAを辞任
本年3月、米国FDA生物製剤評価研究センター所長のピーター・マークス氏は、ロバート・F・ケネディ保健福祉省長官からの圧力を受け辞任した。マークス氏は辞表の中で、麻疹ワクチン関連の死亡や脳腫瘍に関する、存在しないデータの提出を求められたと述べている。なおトランプ政権では、FDAでは少なくとも3,500人、疾病管理予防センターでは2,400人、国立衛生研究所(NIH)では1,200人の人員削減が計画されており、マークス氏の辞任はその一環として捉えられている。
⑨FDAが遺伝子組換えブタを食用として承認
米国FDAは本年4月、ウイルス抵抗性を持つよう改変された遺伝子組換えブタを食用として承認した。このブタは、北米、ヨーロッパ、アジアで被害の大きいブタ繁殖呼吸器症候群(PRRS)に抵抗性を持つよう改良されたものである。遺伝子編集CRISPR/Cas9を用いてウイルスがブタに侵入する際の受容体であるCD163遺伝子を不活化したところ、ウイルスを投与しても感染の徴候を示さなくなった。
⑩精密育種の進展
これまで遺伝子編集等のツールを用いた作物改良による精密育種は、精密医療の発展に比べ遅れをとっていた。しかし最近、トロピック・バイオサイエンス社の、褐変耐性を持つバナナ、ピポット・バイオ社の、外部の硝酸塩濃度に関わらず窒素を固定できるマメ科植物根粒細菌の開発・市販等が行われているほか、各種昆虫耐性植物の開発が行われ、精密育種は着実に進展している。
5.記事に対する著者の感想
以上だが、著者が感じたことをいくつか述べたい。
(1)ライフサイエンス分野の比重
まず、サイエンス誌の10大ニュースのうちライフサイエンス関係は6つ(個別化遺伝子編集治療、淋病治療薬、がんとニューロンの関係、デニソワ人、異種臓器移植、耐熱性コメ)である。一方、ネイチャー誌の10人のうちライフサイエンス関係は7人(CDC長官、パンデミック指針策定、ハンチントン治療薬開発、超深海探査、カの放散によるデング熱の撲滅、プロテアソーム、塩基編集治療ベビー)になった。
ちなみに昨年(2024年)は、サイエンス誌ではライフサイエンス関係は6つ(HIV予防薬、CAR-T自己免疫疾患治療、RNA干渉農薬、窒素固定する細胞小器官の共生、多細胞生物の発生、古代ヒトゲノムの血縁性)、ネイチャー誌の10人のうちライフサイエンス関係は2人(CAR-T自己免疫疾患治療、MPOXの発生)だった。
昨年に比べると、ライフサイエンス関連の記事はずいぶん増えた。理由は分からないが、たまたまなのかもしれない。ただ、 毎年度のことだが、今年と昨年の内容を比べると全く変わっており、同じものが一つもないのが分かる。いかにライフサイエンス分野が広範であり、またその進展が急であるかが分かる。
(2)トランプ政権の影響
今年はトランプ氏が米国大統領に就任したことで、科学界に大きな混乱を引き起こした。ライフサイエンス界にとっても、NIH、FDA、CDC予算の削減、これら組織の主要な関係者の解任等、科学界には脅威となっている。実際に今回のニュースでも、いくつも関連した内容が取り上げられた。しかし、その取り上げられ方としては、サイエンス誌のネガティブニュースに見られるように、全てがネガティブなものだった。この傾向は、トランプ氏が大統領職にあるかぎり、続きそうである。今後、内圧にせよ外圧にせよ、何らかの方針・方向転換が見られ、よいニュースとして取り上げられることが起こるよう、淡い期待を抱きたい。
(3)各誌のライフサイエンス分野での重なり状況
サイエンス誌の10大ニュースとネイチャー誌の重要人物10人との比較では、ライフサイエンスの分野で共通していたのは、トランプ関連を除いた科学的業績だけで比較すると1件だけだった(個別化遺伝子編集治療ー塩基編集治療ベビー)。面白い?ことに、これをネイチャー誌の「一年間のまとめ」や、ネイチャーバイオテクノロジー誌の10大ニュースにまで広げても、やはりそれ以外に重なりはなかった。例年もそうなのだが、この、重なりがあまり見られない原因はよく分からない。サイエンス誌とネイチャー誌で、評価基準が違うのだろうか。あるいは、自社の雑誌に掲載された論文を優先しているのだろうか。いずれにしても、選定されたものの大部分が異なるのは間違いない。
それで想起されるのはノーベル賞の選定である。かつては、日本での下馬評と全く異なる人物が選ばれることがよくあり、そのためにマスメディア各社は慌てて取材を始め、政府も受賞後に審議会のメンバーに加えたり叙勲の対象にしたりしていた。最近でこそ、ノーベル賞に準じた賞の受賞者の中に入っていることが多くなってきたので、慌てる場合は少なくなってきたが、それにしても、優れた研究とは何か、考えさせられる。
(4)本ニューズレターとの関連
最後に、これら重大ニュースと本ニューズレターの関係である。著者としてはこれら重大ニュースは自分に対する通信簿のようで、いつもひやひやしながらこの時期を迎えていた。そして、今年の結果としては、打率(重大ニュースのうち本ニューズレターに掲載された率)は従来ほど低かったわけではないが、かといってそれほど高くもなかった。
トランプ政権を巡る状況については本ニューズレターで何度も取り上げてきたのだが、それ以外で、科学的トピックのうち、ニューズレターで取り上げていたのは、サイエンス誌とネイチャー誌とネイチャー・バイオテクノロジー誌に共通する個別化遺伝子編集治療ー塩基編集治療ベビーー精密遺伝子医療(ただし遺伝子編集企業の紹介がらみで少し紹介しただけで本格的に取り上げたとは言えない)(第85回 ヒトゲノム編集ベビーの作出を目指す企業が出現)のほか、サイエンス誌の10大ニュースのうち、異種臓器移植(第79回 遺伝子改変ブタの臓器のヒトへの移植の動向について)、ネイチャー誌の一年間のまとめのうち、新たなタイプの抗生物質発見(第68回 新たな作用機序を持つ抗生物質の発見)、ネイチャーバイオテクノロジー誌の10大ニュースのうち、動物実験の代替(第78回 米国における動物実験の代替化政策の動向について)だけである。
本ニューズレターのトピックとして紹介するものの半分が、政策的なものや大規模研究に関するものだということも一因だが、残り半分は個別の科学的トピックなので、言い訳にはならない。今後も伯楽としての眼を少しでも磨いていければと思う。
参考文献
・Tim Appenzeller et. al. (2025) “2025 Breakthrough of the year”, Science; Vol.390, 1208-1229
・M. Kozlov et. al. (2025) “Nature’s 10”, Nature; Vol.648, 515-529
・L. Melton (2025) “Top ten news stories in 2025”, Nature Biotechnology; Vol.43,1891-1892
ライフサイエンス振興財団理事兼嘱託研究員 佐藤真輔

