第39回 免疫のビッグプロジェクトが開始される

1.はじめに

 本年、「Human Immunome Project(HIP)」というプロジェクトが開始される。これは、国際協力で多数の血液・組織の試料を収集・解析することにより、免疫システムの人による違いがワクチンや薬に対する反応や病気への抵抗性などにどのような影響を与えるかを解明しようとするものである。

 今回はこのプロジェクトの背景、内容及び意義等について紹介する。

2.HIPの背景

(1)免疫は複雑なシステムである

 ヒトの免疫システムはヒトの脳や老化等の仕組みと並び、生物の最も複雑なシステムの一つである。免疫システムは、各種の免疫細胞やサイトカイン、遺伝子再構築の仕組み等の発見により基本的には解明されてきたが(下図参照)、詳細はまだよく分かっていない部分も多い。

HIPにより解析する免疫システムの図
免疫の基本的な仕組み 出典:財団法人長寿科学振興財団HP

 たとえば、B型肝炎ワクチンは、接種することで通常、肝炎ウイルスに対して長期間抵抗性を保つことができるが、10%の人には効果がないとされる。また、薬の効果やそれに対する副作用も人により異なる。
 そのような違いは免疫システムが深く関与しているが、これまでその原因は具体的には解明できていない。というのはそれらの現象には特定の遺伝子やタンパク質だけでなく、さまざまな要素が関係しているからである。

そのような複雑なシステムを解明するためには生体中の各種のパラメータを調べるとともに、分析にAIの助けを借りる必要があると考えられる。

(2)これまでのデータ収集は不完全

 こうしたヒトの免疫機構の詳細を知るためには、まず、免疫に関連したデータを大量に収集し、比較・解析する必要がある。これまで、公的又は民間の取組みにより、多数の人々からいくつかの基本的な免疫データが収集されている。
 たとえば、米国のAll of US Projectでは、100万人のゲノム及び医療データが収集されてきている。また、Google傘下のVerily社が行うProject Baselineでは、個人の新型コロナウイルス感染時の反応についての情報が収集されてきている。

 ただ、これら既存のプロジェクトは、もともと免疫そのものの解明に特化しておらず、限られた種類の情報を集めただけである。このため多くの要素が関係する免疫システムの解明には情報として不足していた。また、Project Baselineのように、詳細なデータを一般公開していないものも多く、各機関がデータを共有しつつ解明したり、それを活用して患者の診断を行ったりすることは困難だった。

(3)HIPの発足

 このような状況の中、免疫に関するデータを既存の情報に頼らず、一から体系的に収集・分析することでその詳細を解明し、それをプラットホームとして共同利用していこうという考えが生まれた。そして2022年9月 、米国カリフォルニア州のラホーヤに生命科学やAI関係者が集結してサミット会合が開催され、そうした考えを具体化する国際協力プロジェクトを創設することについて合意がなされた。

 当時、関係者間でワクチンの効果や副作用を調べるため、ヒトワクチンプロジェクトが行われつつあったが、HIPではそれを拡大して、免疫全体のシステムを解明していくこととなったのである。

 そして2023年11月、スペインのバルセロナに学会、産業界、政府組織、市民団体の代表者40人以上が集まり、その具体的な研究計画を策定・発表し、HIPが正式に発足した。

3.HIPの内容

(1)プロジェクトの概要・方向

 こうして決められたHIPは、今年すなわち2024年から具体的な活動を開始することとなった。

 データ収集のためのフェーズとしては二段階、すなわちパイロット的に小規模なデータ収集を行うフェーズⅠ(2024~26年)と、それを踏まえて規模を拡大して本格的なデータ収集行うフェーズⅡ(2027年~)からなる。

 また、それを用いた理論・予測モデル構築としては、今後5年間(2024~2028年)で免疫システムの原理を検討し、次の5年間(2029~2034年)は、その成果を踏まえて詳細な免疫システムの原理を導き、モデルを構築するという計画になっている。

(2)フェーズⅠ

 今年開始されるフェーズⅠでは、欧米のほか、東アジア、オーストラリア、さらには南米やアフリカに設けられるパイオニアサイトと呼ばれる合計7~10か所のサイトが、試料の収集・分析に当たることになる。
 各サイトでそれぞれ約500人を対象に、参加者全員から血液試料と、うち10%の人々からはきめ細かい分析のため組織試料(皮膚、腸、扁桃腺の生検)が収集される。また、インフルエンザワクチンやSARS-CoV-2ワクチン等の接種を受けた参加者からもデータ収集がなされる。

 分析は、免疫細胞の種類、DNA、RNA、タンパク質、エピジェネティック修飾、抗体、代謝産物等、免疫に関係する各種のパラメータに及ぶ。そしてその過程で、今後、効率的でどこでも正確な試料の収集・分析ができるよう、独自の免疫モニタリングキットの開発を行うこととする。
 これにより、多様な人々から大規模に標準化されたマルチオミックスデータを収集することができるようになる。具体的には、各種免疫細胞の頻度測定、単一細胞での関係タンパク質及び転写産物の測定、単一細胞でのクロマチン修飾の測定等が確実に行えるようになることを目指す。

(3)フェーズⅡ以降

 2027年から始まるフェーズⅡでは、フェーズⅠの研究の拡張を行うことになる。世界中で70~100のデータ収集サイトを確立し、また各サイトでの収集人数は約1,000人に増やす。

 またフェーズⅠで開発された免疫モニタリングキットを、全てのサイトで使用する。これにより、開発途上国でも世界最先端の研究機関と同レベルでデータ分析を行えるようにする。

 なお最終的な目標としては、全ての居住大陸に最大300か所の収集サイトを設け、各サイトにおいて、新生児から100歳までの各年齢層、各種の社会経済レベルを網羅した1万人ものデータを、収集・分析する。収集対象には、健康な人々だけでなく、自己免疫疾患、がん、アレルギー等の各種免疫疾患をもつ人々も含まれる。

(4)予測モデルの開発と利用

 これらデータ収集フェーズと並行して、予測モデルの開発が行われる。すなわち人類全体にわたり適用できる、一人一人の免疫反応を正確に予測できるシステムである。システム構築に際しては、人工知能(AI)による、各パラメータの詳細な分析と、それを踏まえたモデル構築が行われる。

 データ収集フェーズとは時期がずれるが、最初の5年間(2024年~2028年)は、生成されたデータに基づき、免疫反応を予測する方法について理解を進め、予測モデルを試作することに焦点が当てられる。
 そうして次の5年間(2029年~2033年)で、予測モデルの高度化と、公的に利用可能となるよう、システマティックに計算可能な免疫系モデルの構築が集中的に行われる。具体的には免疫プロファイル、祖先、経済的地位、年齢、その他の情報に基づいて、個人が特定の薬やストレスや課題にどのように反応するかを予測できるモデル構築を目指す。

 最終的に、HIPは合計2兆近くの免疫データを生成し、中央データベースを通じて政府や民間企業のほか、一般にも利用できるようにすることを目指す。

4.HIPの意義と課題

(1)意義

 このモデルが構築された場合、製薬企業が薬物反応を予測しつつ、新たな治療法の開発を行うのに大いに役立つことが期待される。

 また国民全体の健康状態と、副作用に対する脆弱性についての詳細な予測を提供することで、各国が自国民にどの薬が必要か、どの薬が適しているか等をより的確に判断できるようになる。それにより医療費を削減できる可能性が広がる。

(2)課題

 しかし、HIPを進めていく上で、いくつかの課題がある。

 まず、今回のような大規模で多種類にわたるデータの収集・分析はこれまでなされたことがない。計画どおり順調に進んでいくかどうかは分からない。

 特に資金調達の問題がある。現時点では年間500万ドルの予算しかない。これだとフェーズⅠくらいの規模であれば何とかやっていける。しかし将来大規模で行うとなると全く足りなくなる。目的達成のためには今後10年間で約10億ドルから30億ドルという超大規模な予算が必要になると考えられる。
 現在、製薬企業としては、コロナワクチンの開発企業であるファイザーやモデルナのほか、アストラゼネカ、GSK、ヤンセン、ノバックス等が参加している。しかしこれをさらに広げ、政府機関、その他の製薬企業、慈善活動団体等の協力が必要となると考えられる。

 また、試料を提供する参加者をうまく集めることができるかどうかも課題となる。広範なパラメータ収集のため、侵襲的な試料の採取も含まれていると進んで参加する者がいなくなる。また、参加者への見返り、たとえば報酬や、健康分析結果の分析等の参加者への還元がないとモチベーションが上がらず、白人以外の参加者を集めるのが困難となる。

 次に、各種モデルづくりが順調に進むかどうか。HIPでは予測モデルだけでなく、免疫システムがどのように機能するかを再現するモデル生成も目的としており、またプロジェクトで得られる情報を理解するための理論的枠組みが必要となる。HIPではこれらを行うのにAIを主体的に活用することとしている。
 しかし、医療分野でのAIによるシステム構築はこれまでほとんど経験がなく、真に信頼のおけるシステムになるのかどうかという疑念がある。

5.おわりに

 上記のように、HIPにはいくつか課題もあるが、実行されたあかつきには大きな恩恵がもたらされることが予想され、着実な遂行がなされるよう、協力が進むことを期待したい。

参考文献

・M. Leslie (2023) “Megaproject will chart human immune diversity”, Science; Vol.383, 13-14
・Human Immunome project HP (https://www.humanimmunomeproject.org/
・J. Sampedrd (2024/1/4) “A library of human defenses”(https://english.elpais.com/science-tech/2024-01-04/a-library-of-human-defenses.html
・「健康長寿ネット」(2024/1/21)公益財団法人 長寿科学健康財団HP(https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/covid-19-taisaku/menekitohananika.html

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔