第5回 中国のライフサイエンス研究の歴史5~大躍進政策や文革の混乱と収束~
1. 大躍進政策や文革の混乱と収束
1958年に毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし急速な人民公社化は、党幹部を意識した誇大報告の横行、極端な労働平均化など深刻な問題を引き起こした。1959年と1960年には天災も重なり、大規模な飢饉が中国を襲い大量の餓死者を出した。1960年代初頭には人民公社の縮小が行われ、毛沢東が自己批判を行い、劉少奇や鄧小平が政治改革や経済調整により実権を掌握した。
劉少奇らに不満を持った毛沢東は、1965年末に文化大革命を発動させた。文革により、中国の科学技術やそれを支える高等教育のシステムが根底から覆された。大学や研究所などの施設や装置は破壊され、新規の学生の入学や研究者・技術者の採用はストップとなり、職員の迫害・追放・下放が相次いだ。
1977年の文革終了後、中国科学院などの国の研究機関や大学は、研究や教育システムの立て直しに全力を挙げることになる。1978年3月、鄧小平が全国科学大会で「科学技術は第一の生産力である」とし、「できるだけ早く世界レベルの科学技術専門家を育成することが重要課題である」と主張し、中国に「科学の春」をもたらした。
多数の科学者・研究者に対する文革中の罪が晴らされ、教壇や研究に戻った。中国科学院では、地方に移管された研究機関が再び傘下の研究機関に復帰し、また新しい研究機関が設立された。文革中にほとんど活動を停止していた大学などの平常業務への復帰が急ピッチで進み、全国大学統一入学試験(高考)が数年ぶりに再開された。また西側諸国との国際連携が復活し、優秀な人材が欧米や日本に国費留学生として派遣された。
2. 分子生物学での後れ
ライフサイエンス研究に関しても、文革中は西側諸国との国際交流が禁止されていたこともあり、動植物学を中心とした基礎生物学、農林学、漢方を含めた医学など伝統的な学問の範囲内でしか進展できなかった。
文革終了後、鄧小平らのイニシアティブで大学や研究機関のレベル回復を目指したが、失われた10年間を取り戻すのは容易ではなかった。とりわけ、DNA解析の手法を用いる分子生物学での後れが目立った。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNA二重らせん構造の提唱は1953年で、これに対するノーベル生理学・医学賞の授賞が1962年であり、それと前後してDNAとタンパク質の情報を仲介する伝令RNA(mRNA)が発見され、さらにDNA情報とタンパク質構造との関係すなわち遺伝暗号が明らかにされた。こういった新たな発見に基づき分子生物学が米国を中心に花開いていく。中国にとって不幸だったのは、この分子生物学が急激に進展した時期に文革で国を閉じていたのである。
3. ウシ・インスリン合成
そのような時期であっても、優れた中国の科学者の中には世界的な成果を残した人たちもいる。
まず、ウシ・インスリンの人工合成を取り上げたい。血糖調整に重要な働きをするインスリンは、動物の膵臓から分泌されるタンパク質である。英国・ケンブリッジ大学のフレデリック・サンガーは1951年に、ウシ・インスリンのアミノ酸構造を解明し、1958年にノーベル化学賞を受賞した。
サンガーにより構造が解明されたウシ・インスリンの機能は、ヒト・インスリンと極めて近く、ウシ・インスリンを合成することができれば糖尿病患者への特効薬として多くの生命を救うことができると期待され、世界の多くの科学者がウシ・インスリンの人工合成を目指した。中国でも、サンガーのノーベル賞受賞年である1958年に中国科学院上海生物化学研究所がウシ・インスリン人工合成計画を策定し、1959年に国家の研究プロジェクトに採用された。
1964年、上海生物化学研究所の鈕経義(ちゅうけいぎ)らがポリペプチドを使ってウシ・インスリンのB鎖を人工合成し、合成したB鎖を上海生物化学研究所の鄒承魯(すうしょうろ)らが天然のA鎖と再編することにより、イススリンを作り上げることに成功した。続いて1965年、上海有機化学研究所汪猷(おうゆう)と北京大学化学部の季愛雪らがインスリンA鎖の人工合成を完成させ、これと先に上海生物化学研究所で人工合成に成功していたB鎖とを再編することにより、ウシ・インスリンの完全な人工合成に成功した。人工合成したインスリンを純化して測定したところ、天然のインスリンと全く同様の活性と抗原性を有し、しかもその結晶の形が天然のものと同一であった。
これらの成果を鈕経義ら20名連名で、1965年11月に「中国の科学」誌に短信を、1966年4月に全文を発表した。その直後に、鄒承魯らがワルシャワで開催された欧州生物化学学会で発表したところ、大変な驚きと賞賛を持って迎えられた。また同年の7月に、サイエンス誌が「赤い中国の完全なインスリン合成(Total Synthesis of Insulin in Red China)」という記事を掲載し、この業績を称えた。
このプロジェクトの成果は、中国のポリペプチド・蛋白質合成分野における研究レベルが、世界の先端に達したことを示すものであり、これによってインスリンに関するホルモンの研究や応用も加速し、インスリンの作用原理やインスリン結晶構造の研究も促され、生化学試験や生化学薬物の発展にもつながった。
プロジェクトの達成直後に文化大革命が始まり、科学研究の国際交流が中断されたため、この画期的な成果も国際社会から忘れられたが、文革終了後の1978年に、ノーベル物理学賞受賞者の楊振寧が本件成果をノーベル賞に推薦すべきであると主張したため、中国科学院は上海生物化学研究所・鈕経義をノーベル賞ノミネートの候補とし、楊振寧ら中国系の著名研究者に鈕経義の推薦を依頼した。そして、期待を持って翌1979年のノーベル賞受賞の知らせを待ったが、残念ながら吉報は来ず、受賞できなかった。
なぜ受賞できなかったについて、当時中国ではプロジェクトの成功から時間がそれほど経っていないことや、ノーベル賞選考委員会に中国人差別があるなどの理由が取り沙汰された。しかし現在では、このプロジェクトは数十名が参加して「力仕事」的に実施されたものであり、ノーベル賞の受賞理由とされる科学の原理やオリジナルなものではなく、受賞になじまなかったとの考えが定説となっている。
4. 袁隆平~ハイブリッド米の開発
もう一人、世界の食糧生産に貢献した袁隆平を取り上げる。袁隆平は、1930年北京で生まれ、1949年に重慶相輝学院(現西南大学)の農学部に入学し、遺伝育種学を専攻した。1953年に同学院を卒業し、湖南省懐化地区の安江農学校の教師となった。湖南省は水稲生産が盛んで、中国の主要な米産地の一つである。
毛沢東は1958年に決定された第2次五か年計画で「世界第2位の経済大国の英国を3年で追い越す」とした。これが大躍進政策である。しかし、市場原理を無視し、ずさんな管理の元で一部の農工業製品のみに無理な増産を指示したため、かえって大幅な生産力の低下となり、大飢饉を招くことになった。大躍進政策が行われた1958年から1961年の4年間に、数千万人の餓死者を出したと言われている。
袁隆平は、打ち続く飢饉に心を痛め、何とか食糧不足の問題を解決できないか模索を始める。1960年、農学校の試験田で栽培していたイネの一株が特殊な性状を有することを発見した。その後、この株を元に試験を積み重ね、天然交配で子孫には伝播しないことを発見した。これがいわゆるハイブリッド米開発の原点であり、ハイブリッド米とは、稲の品種改良において、雑種第一代に現れる雑種強勢を利用して育種した収穫量の多い米を指す。袁隆平は、これらの試験結果を基に1964年から農学校の試験田で大々的に研究開発を進めた。1972年には、全国30余りの研究機関が参加する重点プロジェクトに認定され、袁隆平は陣頭指揮を執った。そして、ついに1973年に通常のイネより20%も収穫量の多い優良品種「南優2号」を開発した。
「南優2号」の開発に成功した袁隆平は、さらに高収率で高品質な米の開発に努力を傾けた。1996年に中国農業部が「中国スーパー水稲育種プロジェクト」を設立し、袁隆平はそのプロジェクトリーダーとなった。
これらの研究成果は、中国の農業に革命的な成果をもたらし中国の食糧問題を大幅に解決しただけでなく、世界的な食糧不足問題を解決する切り札とみなされ、「第2次緑の革命」などと賞賛する声も挙がった。
ハイブリッド米開発により、袁隆平は中国国内の数々の賞のほか、国連食糧農業機関(FAO)の食糧安全保障貢献賞、日経アジア賞などを受賞している。また2004年には、農業技術関係のノーベル賞と言われるウルフ賞を受賞している。
袁隆平はその後も活発な研究活動を行い、2018年に1ムー(15分の1ヘクタール)当たり1,152.3キログラムという水稲栽培収量の世界記録を達成したり、塩害に強い海水稲の開発普及に積極的に取り組んだりしたが、2021年に長沙で亡くなった。
参考資料
・百度百科HP 「人工合成牛胰岛素」
・” Monty P. Jones and Yuan Longping” World Food Prize 2004
https://www.worldfoodprize.org/en/laureates/20002009_laureates/2004_jones_and_yuan/
・“イスラエルのウルフ賞 袁隆平院士が農業賞を受賞” 人民網 (2004年5月10日)