第2回 中国のライフサイエンス研究の歴史2 ~大学の設立、留学生派遣、西洋医学教育開始~

1. 大学の設立

 清朝政府は、西欧の圧力に対抗するため洋務運動を進めたものの、軍事力はそれほど強化されず、1895年には同じアジアの日本との戦争に敗北した。危機感を持った清の光緒帝は「戊戌の変法」と呼ばれる改革を実施したが、西太后を中心とする保守勢力のクーデターに遭い失脚した。戊戌の変法の成果として残ったのが1898年の京師大学堂の設立で、これが北京大学の前身となった。京師大学堂設立と前後して、1896年の南洋公学(現上海交通大学)、1897年の求是書院(現浙江大学)、1902年の三江師範学堂(現南京大学)、1905年の復旦公学(現復旦大学)などの設立が相次ぎ、中国における高等教育の基盤が確立された。

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2. 留学生の派遣

 高等教育機関の設立に併せ、優れた人材の日本や欧米への留学も積極的に行われた。

 とりわけ、日本は距離的にも近く留学費用も欧米と比して安価であったため、清朝政府は日清戦争の敗戦直後の1896年から官費留学生を日本に派遣し、多くの有為な青年が上海や天津の港から船で日本へ渡り、早稲田大学や東京大学などへ入学した。20世紀初頭に日本に留学した学生数は、1万人から2万人に達したと言われている。

 さらに米国への留学を加速させたのが、義和団事件後に北京議定書で清に義務付けられた賠償金の米国による一部返還である。清朝政府は、この賠償金の返還資金により庚款(こうかん)留学生制度を創設し、米国のコロンビア大学、ハーバード大学などに、1909年に47人、1910年に70人、1911年に63人を、それぞれ留学させている。

 この様に、高等教育制度が整備され、また日本や欧米への留学が盛んとなるにつれて、近代的なライフサイエンス研究も徐々に盛んになっていった。

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3. 湘雅医学専門学校と北京協和医学院

 中国において西洋医学の教育が本格化したのは、清朝末期から辛亥革命を経た中華民国の時代である。西欧列強は、キリスト教の普及や植民地支配などを目的として、支配下にある地域に西洋医学による病院を建てていった。そしてその病院で西洋医学の医者を育てるべく教育を開始した。清朝や国民政府が、これに倣って西洋医学を中心とした専門学校を設置し、現在の北京大学や浙江大学などの医学部の原型となった。

 これと並行して米国の慈善団体などが資金を出し、米国本土の大学と連携して医学の高等教育を専門とする学校を設置した。その代表的な例が、湘雅医学専門学校と北京協和医学院である。

 まず湘雅医学専門学校であるが、1901年に米国イェール大学の卒業生を中心に雅礼協会(Yale-China Association)が設立され、この協会の援助により1906年に雅礼医院(Yale Hospital)が湖南省長沙に設置された。この雅礼医院をベースに西洋医学の学校設立を目指したのが、顔福慶という医師・医学教育家である。顔福慶は1882年に上海で生まれ、上海にあった米国聖公会のミッション系大学・聖ヨハネ大学で医学の基礎を学んだ後、1906年に米国のイェール大学に留学した。1909年に医学博士号を取得した後帰国して、雅礼医院に外科医として勤務した。母国の医学教育の実情を憂えた顔福慶は、湖南省政府と母校イェール大学に強く働きかけ、1914年に両者の協力を得て湘雅医学専門学校の設立に成功し、初代の学長に就任した。

 顔福慶(1882年~1970年)百度HPより引用

 湘雅医学専門学校は、8年制の医学校であり、当時の中国高等教育機関で出来なかった博士号の授与が可能となった。湘雅医学専門学校はその後、後述する北京協和医学院とともに中国の西洋医学教育を牽引し、「南の湘雅、北の協和」と呼ばれることになった。現在は、中南大学の湘雅医学院となって、引き続き優秀な医師・医学者の育成に当たっている。

 一方の北京協和医学院であるが、母体は1906年に米英のキリスト教教会が北京に設立した協和医学堂である。米国資産家のロックフェラーは中国の西洋医学教育の振興に関心を示し、1909年頃から有識者を中国本土に派遣して実情を調査した。1914年にロックフェラーは米国で財団を設立し、その初期の事業の一つとして北京の協和医学堂を買収し、これを母体としてより充実した西洋医学教育の実践を目指した。1915年にロックフェラー財団による買収が完了し、協和医学堂は「北京協和医学院、Peking Union Medical College」と改称された。ロックフェラー財団は、多額の追加資金を投じて校舎建設や教師招聘などを行い、1919年に同医学院は湘雅医学専門学校と同様、8年制の医学校として学生募集を開始するとともに、1921年に臨床機関として「北京協和医院」を開設した。その後、日本軍や中国共産党に接収されたりしたが、現在も北京協和医学院と北京協和医院は存続しており、教育と臨床を行っている。

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4. 湯飛凡~トラコーマ治療

 二つの医学専門学校に関係する著名な医者・学者を紹介する。なお、これらの人たちの活躍した期間は、新中国となってからの時期も含まれていることを予め述べておく。

湯飛凡(1897年~1958年)百度HPより引用

 まず1897年湖南省生まれの湯飛凡は、1914年に新設の湘雅医学専門学校に入学した。1921年に医学博士号を取得し、北京協和医学院に移り細菌学を研究した。1925年には奨学金を得て米国に赴き、ハーバード大学医学部で細菌学を学んだ。

 1929年に帰国した湯飛凡は、上海医科大学などで教鞭を執る傍ら、臨床的な研究としてトラコーマ、おたふく風邪、インフルエンザ、流行性髄膜炎などの研究を行い、20編以上の論文を発表した。1937年に日中戦争が勃発すると、戦争の前線近くで負傷兵士の治療や防疫の業務に当たるとともに、中央防疫処処長としてワクチン、血清、生物製剤などの研究と生産を行った。1943年には、臨床用ペニシリンと発疹チフス・ワクチンを中国で初めて生産している。

 1949年に新中国が建国されると、湯飛凡は新政府で衛生部生物製品研究所所長に就任し、ペスト、黄熱病、天然痘などの防疫の任に当たった。さらに湯飛凡は、当時中国人の国民病であったトラコーマを研究し、その原因となるクラミジアを発見するとともに治療のための抗生物質も特定し、1956年に論文として発表した。このクラミジアは、トラコーマだけではなく、オウム熱、鼠径リンパ肉芽腫などの原因菌であり、これらの病気の治療法の開発に大きく貢献したとして、世界の医学界から賞嘆された。

 1957年に、反右派闘争が毛沢東らの指導により実施された。湯飛凡はこの反右派闘争に巻き込まれ、耐えがたい侮辱を受ける。湯飛凡は、資産階級の反動的学術権威、米国スパイなどと罵倒され、部下の女性研究者と不倫関係にあるとの陰湿な中傷もなされ、これらが原因で1958年9月に首を吊って自殺した。

 その後、夫人が夫・湯飛凡の名誉回復を求めて活動し、約20年後で文化大革命の終了後の1979年に、国務院衛生部(日本の旧厚生省に該当、現在は国家衛生健康委員会)が湯飛凡の汚名を雪いだ。

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5. 張孝騫~中国近代内科学の創始者

張孝騫(1896年~1987年)百度HP

 張孝騫は、前記の湯飛凡と同じく1896年に湖南省で生まれ、1914年にはやはり湯飛凡と同様新設の湘雅医学専門学校に入学した。1921年に同専門学校を卒業し、医学博士号を授与された。卒業した張孝騫は、同校の医師として勤務した後、1924年に北京協和医院に転勤した。その後張孝騫は、母校の湘雅医学院や北京協和医学院などで教鞭を執るとともに、臨床医として活躍した。さらに、1926年にメリーランド州にあるジョンズ・ホプキンズ大学医学部で1年間研修医として勤務し、1933年にスタンフォード大学医科大学院で胃酸分泌の研究を行った。

 張孝騫は、消化器内科を主領域として、血漿中のタンパク質濃度と糖尿病との関連、甲状腺機能異常、腎臓病などを研究した。また、胃の分泌機能、アメーバ赤痢、潰瘍性結腸炎、結核性腹膜炎、消化器潰瘍などの研究を行い、多くの学術的な論文を発表している。中国内科学の創始者と言われるゆえんである。

 また張孝騫は、長年北京協和医学院や母校の湘雅医学院の教授や校長(学長)などとして、後進の指導に当たった。張孝騫は、医者の養成には十分な時間としっかりした設備が必要であり短期間や貧弱な設備での促成は良くないとの観点に立ち、少人数での教育、長期間の教育、基礎課程の重視などを自らの教育現場で実践していった。

 文化大革命で、張孝騫は汚名を着せられ侮辱と迫害を受けたが、周恩来首相が張孝騫を安全な場所に匿うことに成功した。文革終了後の1978年に、張孝騫は中国医学科学院の副院長に任命された。1987年に張孝騫は、肺がんにより長年勤めた北京協和医院で亡くなった。

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6. 林巧稚~中国人の母

林巧稚(1901年~1983年)百度HPより

 続いて、北京協和医学院の代表的な卒業生として、著名な女医である林巧稚を取り上げる。林巧稚は1901年に福建省厦門(アモイ)に生まれ、1921年に北京協和医学院に入学した。1929年に最優秀の成績で同医学院を卒業して医学博士号を取得し、附属病院である北京協和医院の産婦人科の医師として勤務を開始した。

 勤務を始めて間もない頃、北京協和医院に重篤の妊婦が運ばれてきた。妊婦は、子宮破裂で血が止まらない状態であり、当時助手的な担当に過ぎなかった林巧稚は直ちに主任にその旨を告げたが、主任は別の手術を行っていたため林巧稚に自身で手術を行うように命じ、彼女はこの手術を無事に成功させた。この件により、林巧稚は助手的な立場から一人前の医師として病院内で認められることとなった。

 その後、1932年に英国に赴きロンドンとマンチェスターの病院で研修を受け、翌1933年にはオーストリアのウィーンの病院で訪問医として勤務している。さらに1939年には米国に渡りシカゴ大学医学部で胎盤に関する研究を行った。1940年に帰国後、林巧稚は北京協和医院の産婦人科で女性初の主任となった。

 林巧稚は、戦争で日本軍に北京協和医院が占領されていた時期を除いて、同医院で勤務を続け多くの出産に立ち会うとともに、婦人病の研究に没頭した。文化大革命では、「反動学術権威」とのレッテルを張られ迫害の対象となり、医者として扱われず、便器や痰壺の清掃などの業務を強要された。林巧稚は、その業務をいい加減にすることなく淡々と遂行していたが、周恩来首相らの働きかけにより迫害から解放され、通常の産科医としての勤務に戻っている。文革終了後も北京協和医院で働き続け、1983年に亡くなった。

 林巧稚は、28歳で北京協和医院に勤務し、81歳で死去するまで一貫して現場の医師として働き続けている。死の床にあって昏睡状態に陥った際にも、分娩に使用する鉗子を求めて、「早く、早く、鉗子を下さい」とうわごとを言ったという。彼女は、生涯約5万人の赤ん坊の出産をケアしたと言われており、その意味で畏敬を込めて「中国人の母」と呼ばれている。

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7. 参考資料

百度HP

・刘隽湘「医学科学家汤飞凡」 人民卫生出版社、1999年

・张孝骞画传编辑委员会「张孝骞画传」中国协和医科大学出版社、2007年

・张清平『林巧稚传』団結出版社 2017年 

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