第18回 現在における中国のライフサイエンス研究9~中国での脳研究と霊長類実験

 脳のメカニズムは複雑で、意識、自由意思、睡眠、精神疾患、認知症等まだまだ分からない部分が多く、人体に残された最後の秘境と言われる。近年中国の研究者も脳研究に積極的に取り組んでいる。また脳研究などのための霊長類研究も盛んである。

1.世界の脳研究

 世界の脳研究プロジェクトの現状を見てみよう。

 まず米国であるが、2014年からオバマ前大統領の提唱により先進・革新的神経技術による脳研究(BRAIN:Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)イニシアチブが開始された。これは脳の活動を司る多数のニューロンの活動を記録することにより、脳活動地図(BAM:Brain Activity Map)と呼ばれる脳内の地図作りを行うもので、ショウジョウバエのような小さな脳から始めて、次第にマウスの網膜システム、マウスの皮質、さらに霊長類、最終的にはヒトのBAM作製を目指すものである。同イニシアチブでは関連するさまざまな技術開発も行われており、2025年までに総額45億ドルを投じる計画が示されている。

 欧州では2013年に、ヒト脳プロジェクト(Human Brain Project)が開始された。欧州内外から100以上の機関が参画し、遺伝子、タンパク質、シグナル回路、シナプス間のコネクトーム等のさまざまな研究データ・知見を踏まえ、それを一つのスパコンに結集させ、可能なかぎり正確な脳のシミュレーションを行おうとしている。その成果を用いて、神経変性疾患その他の神経系の障害の解明や新薬の開発を目指している。当初計画では開始から10年間で12億ユーロの拠出が予定されている。

 日本でも2014年度から、理化学研究所を中心に「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明(革新脳)」プロジェクトが行われている。これは小型の霊長類であるマーモセットを用いて、そのマクロレベルでの構造と活動地図作りを行うとともに、そのための技術開発も行うもので、10年間で総額約400億円の規模で行われている。このほか、「精神・神経疾患メカニズム解明プロジェクト(疾患メカ)」、「領域横断的かつ萌芽的脳研究プロジェクト(横断萌芽プロ)」等の研究が、政府主導型のプロジェクトとして行われている。

 これら脳研究のビッグプロジェクトについては、それぞれが独自に研究を行うより、情報・データや人材を相互に交流したり施設の共同利用を図ったりすることで、より効率よく大きな成果が得られる。このため2016年5月開催のG7伊勢志摩サミット首脳宣言付属文書等において、脳科学研究における日米欧の国際連携の重要性が認識された。日本でもそれを踏まえ、「戦略的国際脳科学研究推進プログラム(国際脳)」等の国際協力プロジェクトが行われている。

2.中国の脳研究

 中国には、以前はほとんどトップレベルの研究者はおらず、脳科学研究のレベルはそれほど高いものではなかった。しかし近年、海外で教育を受けポスドク等で活躍した研究者を本国に呼び戻したり、欧米の優れた研究者を招き入れたりすることにより、システム神経科学や脳機能イメージング等の研究分野でインパクトの大きい研究成果が急増している。

 政府はこのような状況を受け、国家科学技術イノベーション第13次五か年計画(2016年~2020年)で、15ある重大科学技術プロジェクトの一つとして「脳科学と脳模倣知能研究(Brain Science and Brain-Inspired Intelligence Technology)」を取り上げた。認知機能の神経基盤に関する基礎研究、脳障害の診断と介入の方法に関する応用研究、脳にヒントを得たコンピューティングの方法とデバイス開発という3本立ての研究開発体制とし、いわゆるChina Brain Projectとして2016年から2030年までの15カ年計画として策定された。ただ、プロジェクト開始時点で、研究プロジェクトの選定や研究資金の配分で議論が巻き起こり、その後なかなか進捗は見られなかった。

 その後、第14次五か年計画(2021年~2025年)において、脳科学は次世代人工知能(AI)、量子情報、半導体、遺伝子・バイオテクノロジー、臨床医学・ヘルスケア、宇宙・地球深部・極地観測と並び、技術開発の7つの重点分野の1つに指定された。それを契機に、2021年2月にようやくプロジェクトへの資金提供が開始され、最初の5年間で50億元の予算が組まれることが決まった。今後予算が拡大することが見込まれ、最終的には米国やEUのプロジェクトと同規模になることが予想されている。

3.欧米の霊長類実験

 こうした脳研究に欠かすことのできないのが、サルなどの霊長類を用いた研究である。ライフサイエンス研究で用いられる実験動物は、扱いやすさなどの観点からマウスやラット、さらにはイヌやブタなどが一般的である。一方、サルなどの霊長類を実験動物とすることは飼育などの点で困難を伴うが、マウスやイヌなどに比べてはるかにヒトに似ており、各種条件設定のもとで霊長類の行動や反応を調べることで、ヒトだとどうなるかを類推できる。特に脳研究において、ヒトの共感、意識、言語等の高度な脳の機能や精神疾患等の原因・メカニズムを解明するには、脳の発達した霊長類を用いた研究が欠かせない。

 これら霊長類のうち最も人間に近いものは類人猿と呼ばれ、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、テナガザルの5種類がある。これらはあまりにヒトに近すぎるため、世界のほぼ全ての国で侵襲研究(投薬、医療機器の埋込み、手術等を伴う研究)は行われていない。
 米国では最近までチンパンジーについて、主要国で唯一、侵襲研究が行われていた。しかし2015年には、同国内務省魚類野生生物局(FWS)の新ルールにより研究に用いられているものも含めチンパンジーが絶滅危惧種に分類され、侵襲実験を行う場合にはFWSへの許可申請が必要となった。さらに同年12月、NIHは今後そのような侵襲研究には資金拠出をしない旨発表しており、かかる研究が行われる見込みは実質的になくなった。

 一方、類人猿以外の一般的なサルについては侵襲研究が否定されていないが、欧州では強い反対運動がある。このため研究実施には合理的な理由が求められ、培養細胞等で代替することができるならばそれを行い、やむを得ず実施するにしてもできるだけ利用数を少なくしたり苦痛を減らしたりする努力が必要となる。欧州では多くの研究者がサルを用いた研究自体を取り止めている。

 このように、欧米では霊長類を用いた研究に対する風当たりは強くなっている。

4.中国の霊長類実験

 これに対して中国では数十万匹もの研究用の霊長類が飼育されており、特に多いのは研究で最も一般的に用いられているマカクザルである。マカクザルは、オナガザル科に属するサルで、中国、インド、日本、東南アジアなどに広く生息している。日本にいるマカクザルはニホンザルとも呼ばれる。

 中国の中央政府や地方政府は近年、マカクザルを中心とした霊長類の飼育施設や研究施設を設置してきている。これらの施設では多数の研究用サルを供与するほか、ハイテクを駆使して質の高い動物ケアや最先端の設備を提供している。
 代表的な例は雲南省であり、同省は雲南霊長類生物医学研究所を設置し大量のサルが研究用に飼育していたが、2016年に国家プロジェクトとして同省昆明市にある中国科学院昆明動物研究所に霊長類の研究施設が設置された。これ以外にも、広東省深圳市、広東省広州市、浙江省杭州市、江蘇省蘇州市などに、マカクザルを中心とした霊長類の飼育施設や研究施設を設置してきている。

 中国では霊長類の飼育や研究において、コスト、規制、生命倫理等のハードルが低い。
 まずコストであるが、例えば、2008年に米国エモリー大学の研究者らが世界初のハンチントン病の病態モデルザルを作出した時、購入に1匹あたり6000ドル、飼育に1日1匹当たり20ドルかかったが、中国では購入に1000ドル、飼育に5ドルというデータがあり、約5分の1程度である。
 また遺伝子編集による双子のベビー誕生に見られるように規制や倫理的な圧力が他の国と比較して緩いという特徴があり、サルなどの霊長類の遺伝子に最先端の遺伝子組換えやゲノム編集の技術を用いて疾病の原因となる遺伝子を導入することができる。このためゲノム改変をしたサルに関する報告の大部分は中国で行われたものであり、自閉症などの精神疾患の特徴を模擬したサルのモデル実験動物も作出されている。

 注記すべきは、最近急速に利用が進展しているゲノム編集技術を霊長類の改変に用いる試みも同国で進展していることである。
 雲南省昆明市にある昆明理工大学霊長類生物医学重点実験室(省級)の研究者らは2014年に世界で初めてCRISPR/Cas9技術をサルに用いたことでこの分野を牽引してきたが、さらに2018年には中国科学院上海神経科学研究所との共同研究により遺伝子導入(ノックイン)を世界で初めて行ったとセル・リサーチ誌に発表した。

 ただ、このような同国での研究の進展は、思わぬ倫理的問題を生ずることもある。2019年3月、中国科学院昆明動物研究所と米国ノースカロライナ大学らの共同研究チームは、中国の科学誌ナショナル・サイエンス・レビューに、ヒトの脳の発達において重要な役割を担うマイクロセファリン(MCPH1)という遺伝子を組み込んだアカゲザル(マカクザルの一種で中国南部やインドに生息)11匹を誕生させ(うち8匹が第1世代、3匹が第2世代)、誕生したサルは野生のサルに比べ短期記憶が良く反応時間も短くなるという結果が得られたとの論文を発表した。
 同チームは、今回の研究におけるサルへのヒトの遺伝子の移植は、「何がヒトを特異にしているのか」という基本的な問いを解き明かすうえで重要な手がかりをもたらす可能性があるとしている。そして同チームは、アカゲザルはマウスなどのげっ歯類よりは遺伝的にヒトに近いが倫理上の問題が生じるほどの近さではなく、また、実験内容については大学の倫理委員会から審査を受け動物の権利に関する国際基準にも従った旨主張している。

 しかし、この実験に対して米国の研究者から厳しい批判が浴びせられた。米コロラド大学デンバー校のジェームズ・シカラ教授らは、かつて2011年に「チンパンジー等の類人猿はヒトと非常に近いためヒトの脳で機能する遺伝子を類人猿に移植するべきではない」との研究論文を発表しており、本件の中国での実験についても「脳の進化にまつわるヒトの遺伝子を研究する目的でヒトの遺伝子をサルに移植することは非常に危険だ」と強く非難している。
 また本実験の信頼性についても議論があり、米国の科学雑誌MCIレビューでは、MCPH1遺伝子を移植されたサルが5匹しか実験過程において生存しておらず一般のサルと比較して明確な結論は得にくい旨述べている。

 中国では脳のメカニズム解明のため、このほかニューロン間の結合を強める働きをする遺伝子SPGAP2や言語能力に関与する遺伝子FOXP2等をサルに導入する試みも行われている。
 各国が安全規制、倫理などの観点で手をこまねいている間に、このような実験が中国で堂々と可能であることにより、海外の研究者が中国と研究協力を行ったり中国にラボを設置したりする場合が増えてきた。例えば広東省深圳市には米国MITと共同で霊長類研究センターが建設されている。これらのラボで海外からの研究者と中国の研究者が共同で研究を行っている。大規模なマカクザルを用いたヒト疾患モデルの開発は、共感、意識、言語等の高次認知機能、脳障害の病原性メカニズム及び介入アプローチに対して重要な研究手段を提供するもので、研究者にとって魅力的である。
 中国の関係者も自らの優位性を自覚しスイスにあるCERNの加速器を範として、自分たちの施設を世界の霊長類研究施設のハブにしようと考えている。各施設では海外でも通用するよう科学研究における動物の人道的な取り扱いを推進する非営利団体AAALACインターナショナルが認証する国際標準を取得しようとしており、いくつかの施設はすでに取得しているようである。

 現在まだ優位にある欧米の脳研究も、中国に急速に追撃を受ける恐れがあることに留意する必要がある。欧米の優秀な研究者が続々と中国に移動し、霊長類を用いた研究が中国で行われるようになるからである。

参考文献

○中国の脳研究プロジェクト
・D. Cyranoski (2016) “Science wins in five-year plan”, Nature; Vol.531, 424-425
・「中国5カ年計画、研究開発費を毎年7%超増額へ 次世代AIなど柱」REUTERS(2021.3.5)
https://www.reuters.com/article/china-parliament-technology-idJPKCN2AX0DQ
・「中国が脳プロジェクトに1,100億円の巨額投資」neumo ブログ(2022.10.7)

○米国の脳研究プロジェクト
・T. R. Insel et. al. (2013) “The NIH BRAIN initiative”, Science; Vol.340, 687-688

○EUの脳研究プロジェクト
・Q. Schiermeier & A. Abbott (2016) “Human brain project releases computing tools”, Nature; Vol.532, 18

○日本の脳研究プロジェクト
・文部科学省研究振興局ライフサイエンス課「ライフサイエンス分野の令和5年度当初予算案について」ライフサイエンス委員会第105回資料(2023.1.13)
(https://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n2368_05.pdf)

○各国の脳研究プロジェクト
・寛和久満夫「今後の脳科学研究の方向 その1~その3」日経バイオテク(2017.7.11、19、21)
・「急速に拡大する“脳”をめぐる世界事情-北米以外のブレインテック事例紹介」(株)メディアシーク(2019.4.4)(https://edtechzine.jp/article/detail/1954

○中国の霊長類研究
・“Monkeying around”, Nature; Vol.532, 4/21/2016
・“Monkey kingdom”, Nature; Vol.532, 4/21/2016

ライフサイエンス振興財団理事長 林 幸秀
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔