第18回 英国で10万人の新生児の全ゲノム解析がスタート
英国でこれから2年間、10万人の新生児に対し、全ゲノム解析が行われることになるという。目的は、通常の新生児スクリーニングでは見つけることのできない、およそ200もの希少疾患を見つけることである。だが、これは一方で倫理的問題もはらむため、慎重な取扱いが必要である。本件は、日本において同様なプロジェクトの実施する上で良い指標となると思われるので、今回はこのことについて解説する。
このプロジェクトは、英国の国民保健サービス(NHS)とゲノミクス・イングランド(GEL)の連携により、1億500万ポンドの予算で行われる。NHSを通じてケアを受けている英国の妊娠中の親に、今年の後半から本プロジェクトへの参加を促し、2年間で10万人の新生児を登録し、全ゲノム解析をすることを目標にしている。
ここで、ゲノム情報を網羅的に解析するいわゆるゲノミクス領域において、米国や中国と並び世界のリーダーシップをとる英国のこれまでの動きについて簡単に述べる。
まず2006年、英国はUK Biobankを発足させた。これは、健常人を対象に遺伝的要因と環境的要因の関係を把握することを目的として、遺伝学的データと表現型データを集めたバイオバンクだった。
次に2013年、NHSの発足65年の記念事業として、同国保健省の全額出資によりGELが設立された。その年、NHS の希少疾患患者とその家族、および一般的ながん患者について、計10 万人もの全ゲノム解析を行う「10万人ゲノムプロジェクト」が発足し、GELはその運営主体になった。そして2018年12月、8万5,000人の患者から、当初目標だった10万件の全ゲノム解析が達成された。
NHS は2019年になって、GEL、UK Biobank と提携し、5 年間でなんと最大 500万件の全ゲノム解析を行い、そのデータを研究に利用できるようにするという計画を発表した。それは2022年10月、「Our Future Health(OFH)」として始動した。認知症、がん、糖尿病、心臓病、脳卒中等の予防・発見・治療を変革することを目的としており、2~3年の短い期間で300を超える疾患の発症と遺伝・環境因子の統計的解析を実施する予定である。
今回の新生児プロジェクトは、そのような流れの一環だと思われる。対象とするのは200種類の希少疾患の遺伝子である。これにより、少なくとも500人の遺伝病の新生児を見つけることが期待される。そうすると、将来この検査を英国の新生児全てに広げた場合、これらの遺伝子を持つ新生児を年間3,000人見つけることができるというわけである。
希少疾患の定義は各国で異なるが、米国では希少疾患対策法で国内患者数が20万人未満(約1,500人に1人)の約7,000疾患が指定され、日本では国内の5万人未満(約2,500人に1人)、欧州では2,000人に1人未満の疾患となっている。
希少疾患は発生確率が低いため、製薬企業はコスト・アンド・ベネフィットを考えると、治療法や医薬品開発には二の足を踏む。すると難病として原因が不明のまま残され、親はそのような子を一生にわたり介護し続ける苦労を強いられる。そのような状況に手を差し伸べ、早期に発見することで希少疾患の迅速な治療につなげていこうというわけである。
ただし、いくつか課題はある。まず倫理的な問題である。
ある病気について、必ず発症するとはっきり分かるのであればまだしも、単にその可能性が高いというだけなら、そんな情報は知りたくもないという親もいる。
また、せっかく発症する可能性を知ったとしても、治らなければ意味がない(ハンチントン病などがこれに当たる)。残酷な結果を生まれて早々に知らされ、苦しむだけだと、知ることは地獄である。
さらに、自分の子どもについて、幼児期ではなく成人になってから発症する病気(がん、糖尿病、アルツハイマー病等)の情報を、知りたくないという親もいる。その頃のことまで責任は負えないといったところであろう。
ただこれらに対しては、今回の検査はよく考えられている。対象とする希少疾患の遺伝子の選定に当たり、リスクが不確実な遺伝子変異や、成人期になってから病気を引き起こす遺伝子変異については除外されている。そして、新生児の親は、5歳より前に症状を引き起こすことがほぼ確実な、よく研究された遺伝子変異によって引き起こされる200種類の病気の結果のみ受け取る。これらは全てが治療可能であり、単純なビタミンサプリメントから骨髄移植に至るまでの対策があるようである。
次にコスト・アンド・ベネフィットの問題である。
このプロジェクトは公的支援を受けている。だが一部の専門家は、このプロジェクト推進よりは、9つしか希少疾患をカバーしていない現在の標準的なスクリーニングをより多くの希少疾患に拡大する方が良い、と主張する。また他の専門家は、このプロジェクトによるスクリーニング結果を治療などでフォローアップすることとなれば、既に過度となっているNHSの負担がさらに拡大することになると主張する。
現在、いくつかの国で、新生児スクリーニングとして、踵から血液を採取し主に生化学検査を使用して最大数十の遺伝病について検査する方法がとられるようになってきた。それらは、特別な食事療法で治療できる代謝障害から、薬物治療が必要な脊髄性筋萎縮症などの筋肉疾患に及ぶ。それを標準スクリーニングとして導入するという手はあるかもしれない。
全ゲノム解析はこれに比べ確かにコストがかかる。ただ、最近は1ゲノム約10万円と、極めて安価になりつつある。これにより、治療しないと脳の損傷を引き起こす可能性のある甲状腺の状態等、さらに多くの障害を検出できる。ただしそのためのコストとそれによって得られるベネフィットがバランス取れるか否かである。それは人により意見が分かれるだろう。
なお、データの不正なアクセスを防止できるかどうかという、セキュリティ面の問題もある。プロジェクトで入手されたデータが、将来にわたり安全に保管され、犯罪捜査、保険、入学、雇用など、当初の目的以外で使われないようにしなければならない。このプロジェクトには、医療機関や民間企業も関与していると思われ、これらに対する措置も必要になる。また、入手されたデータが当初の目的以外の研究に使用されるとなれば、一層の配慮が必要になるだろう。
日本ではいくつかのバイオバンク・コホート研究が実施されている。具体的には、試料数27万人のバイオバンク・ジャパン、試料数12万人のナショナルセンター・バイオバンクネットワーク、試料数15万人の東北メディカル・ネットワークなどである。だが英国のものに比べ、まだ規模は小さい。ましてや新生児に焦点を絞ったデータバンクは存在していない。今後、日本での計画策定に際しては、英国のプロジェクトの方法や発生した問題等を十分踏まえつつ進めていくことを期待したい。
(参考文献)
・J. Kaiser (2022), “Sequencing projects will screen 200,000 newborns for disease”, Science; Vol.378, 1159
・龍成「英国の赤ちゃん向け全ゲノム配列検査が始まる」(https://note.com/ryosei_business/n/n887c7b35e7a7)
・佐藤真輔 (2014)「ゲノム解読等を用いた臨床遺伝子検査における偶発的所見への対応について―米国の事例を踏まえた考察―」生命倫理; Vol.25, 216-224
・塩原梓「英国で最大500万人のゲノム解析研究が始動」日経バイオテク(2022.12.5)
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔