第49回 精神・神経疾患の原因解明のためのプロジェクトの成果が大量に公表

1.はじめに

 本年5月、精神・神経疾患の原因の解明を目的とするPsychENCODEコンソーシアムの研究成果が、Science誌等に大々的に公表された。今回はそれについて、周辺状況も踏まえ紹介するとともに、今後の展望等について考察する。

2.本研究を巡る状況

(1)精神・神経疾患の研究について

 精神・神経疾患の研究については、遺伝学的、生理学的、また画像や動物モデルを用いること等により、多様な方向から活発に行われてきている。プロジェクトとしては、米国、EU、日本、中国等で各種の動物やシミュレーションを使う方法等により、精神・神経疾患の解明も含めた脳の解明の取組みが大規模に行われている。

 ただ、精神・神経疾患は脳の発達したヒトに特有なものが多く、最終的にその原因を解明するには動物ではなくヒトの脳を直接調べることが不可欠である。
 精神・神経疾患の原因遺伝子の解明は、本ニューズレターでも以前紹介したが(第6回 統合失調症の原因遺伝子を探す試み)、各種のプロジェクトにおいて、多数の患者のゲノムを調べることで、共通の原因遺伝子や変異等が調べられつつある。
 ただし精神・神経疾患に関する遺伝子・変異は数十~数百あり、ピンポイントに特定するのは難しい。また、ヒトのゲノムは30億の塩基対からなり、遺伝子等タンパク質をコードするのはそのうち2%に過ぎないが、精神・神経疾患については、遺伝子そのものでなく、ゲノムの非コード領域にある遺伝子の働きを調節する部分の違いによって遺伝子の発現が左右されることがその原因となる場合が多いことが分かってきている。

 そうしたことを詳細に調べるには、ヒトの脳の各部位を取り出して各部位での遺伝子の発現状況等の分析を行わなければならない。
 侵襲を伴うことから、当然ながら生きた脳は倫理上使用できない。このため、死亡した胎児や患者から採取した、いわゆる死後脳を使用することになる。死後脳を用いて、精神・疾患遺伝子やその働きの調節を調べることで、それらの原因解明に大きく迫ることが期待される。

(2)PsychENCODEコンソーシアムについて

 PsychENCODEコンソーシアム(以下「PEC」と略する)は、2015年に米国国立衛生研究所(NIH)の傘下の国立精神衛生研究所(NIMH)によって設立された、精神・神経疾患の分子的基盤を研究するための研究者の学際的なネットワークである。今回発表された研究論文群の著者はいずれも多人数からなるが、その所属はほとんど全て米国の機関であり、少なくとも国際プロジェクトとは言えない。米国では、オバマ大統領時代に設立されたBRAIN initiativeという国家プロジェクトがあり、本プロジェクトはその一環だと思われるが、その関係は正確にはよく分からない。

 PECでは、ゲノム等を調べるために標準化された方法と、得られたデータの解析手法を用いて、ヒト脳におけるゲノムの非コード領域の役割を解明すること等を目指している。特に自閉症スペクトラム障害(ASD)、統合失調症、双極性障害、うつ病等の精神・神経疾患について、非コード領域を中心に各部位の働きを明らかにしようとしている。

 このためPECは、合計2,500人以上の、さまざまな発達段階にある脳疾患者や健常者の死後脳から採取した、組織及び細胞のタイプ別の試料について、各種分析を行ってきている。
 またPECは、そうして得られたゲノム、エピゲノム等の多次元データを公開している。さらに、in vivo及びin vitroモデルシステムにおける疾患関連の調節要素および変異体の機能的特徴づけのデータも公開している。

 PECでの成果については、まずフェーズⅠとして、2018年にScience誌等に11報の論文として発表された。そして今回はフェーズⅡとして、本年5月、Science誌等に合計14報の論文として発表されたのである。
 これら一連の論文は、単細胞技術とマルチオミックスの最近の進歩が反映され、さまざまな成果に結実している。

3.今回の研究成果

 今回発表された一連の論文(Science誌9報、Science Advances誌3報、Scientific Reports1報、Molecular Psychiatry誌1報)について、網羅的でなく、重複も含まれるが、著者が調べた範囲での主要成果は以下のとおり。

・妊娠中の胎児の各発達段階の672個の死後脳について、ヒトの遺伝子型に応じた遺伝子発現データが収集・分析され、発達中のヒト前脳の遺伝子調節要素のマップが作製された。特に、遺伝的多様性も踏まえた正確なゲノムマッピングが行われた。
 これにより、妊娠早期の脳サンプルにはCis調節要素、すなわちヒトに2本ずつある相同染色体の他方側ではなく同じ染色体の別の部位の配列により遺伝子発現が調節される場合が多いことが見いだされた。

・遺伝子発現を制御するゲノム領域が特定された。
 これには一次脳のサンプルとオルガノイドを用いて超並列レポーターアッセイ(MPRA:数千から数万のエンハンサーの機能を一度の実験で大規模に定量解析ができる技術)が適用され、深層学習も用いられた。特に、細胞タイプ別に制御領域を予測する計算モデルが確立された。また、以前に特定された遺伝子変異がエンハンサー活性に及ぼす影響についても調べられ、候補となる8,000の変異のうち2%が遺伝子発現を変化させることが示唆された。

・認知、意思決定、社会的行動等に関与する脳領域である成人の前頭前野について、388人から得られた試料から280万個以上の細胞の核の状態が解析された。
 脳の細胞は部位ごと、細胞ごとに違いがあるため、単一細胞でのRNAシーケンシングを行い、その成果をbrainSCOPEという、大規模な単一細胞ゲノミクスのリソースとして整備した。同リソースには28種類の神経細胞・非神経細胞の細胞タイプが網羅されており、先述Brain Initiativeのネットワーク(BICCN)にも登録されている。

・brainSCOPEによる解析の結果、同じ部位では個人間の変動よりもそれを構成する細胞のタイプごとの変動が大きいことが分かった。そして、発現データと遺伝子型データの統合から、140万を超える単一細胞発現量的形質座(eQTL)、すなわち遺伝子の変異等ではなく発現量の違いにより形質に変化が起こる部位が発見された。
 その多くはこれまでの遺伝子発現データセットでは見られなかったものであり、脳疾患に関連する変異体も含まれていた。

・2歳から60歳までの33人のASD患者の死後脳組織から、比較対照の死後脳も合わせて80万個以上の核を分離し、年齢、性別、死因等も踏まえて細胞別にASDの遺伝子の発現状況を比較したところ、ASDでは、左右2つの脳半球を接続してさまざまな脳領域間の長距離接続を担うニューロンと、脳回路の成熟と洗練に重要なソマトスタチン介在ニューロンと呼ばれるグループに大きな変化が見られることが分かった。

・遺伝子型、eQTL、制御ネットワーク、細胞間コミュニケーションネットワークのレイヤーを組み込んだ統合的なディープラーニングモデルであるLNCTP (Linear Network of Cell Type Phenotypes)が開発された。
 このモデルにより、遺伝子型から細胞型特異的な発現と表現型を高精度で予測することが可能になった。脳関連疾患の250以上のリスク遺伝子と創薬の標的について、関連する細胞型とともに優先順位付けがなされた。

・加齢とアルツハイマー病の予測モデルが構築された。
 例えば、特定のニューロンにおける遺伝子発現とクロマチンの状態により個人の年齢が予測されることが示され、brainSCOPEが精神・神経疾患に対する精密医療アプローチを促進する情報資源であることが示唆された。

PsychENCODE コンソーシアムによる、ヒト脳における遺伝子制御領域の探索
(Science 誌の記事より)

4.研究の意義と課題

 今回の研究では、ヒトの脳における遺伝子調節機能と関連する遺伝子発現パターンのデータを、細胞の種類や発達段階に応じて測定・収集し、大規模に解析された。それにより、これまで手さぐり的に行ってきた脳研究を、全体として理解し、系統的に分析していくことができ、各種の発見が得られた。

 さらに、それらデータがデータセット化されてリソースとして提供されることで、多くの研究者が共通の土台に立って研究していくことができるようになり、非常に有意義なものとなっている。とりわけ神経発達障害や精神・神経疾患に関連する遺伝子データを解釈する上で非常に重要である。これらを理解することにより、個々の遺伝子変異がこれらの疾患の発症と進行にどのように寄与しているか明らかにすることができる。

 一方、死後脳からとった組織での分析では、生きているときと比較して各種生体分子が壊れやすく、通常の脳活動を正確に反映しきれていない可能性もあると考えられる。画像診断等も駆使して、できるだけ生きたままの状態の脳の分析を体系的に行えるよう、技術的な進歩を望みたい。また、合わせてその際の倫理的な課題にも対応していく必要があると思われる。

5.おわりに(筆者独自の感想)

 脳科学は生命科学における最後のフロンティアと言われて久しい。日本もそれなりに組織的に脳研究を行ってきているが、今回のような大々的な発表には程遠いようにも思える。しかし、精神・神経疾患の克服というのは世界共通の課題である。

 今回は米国を中心とするコンソーシアムだったが、そのデータリソースは共通基盤化され、また、日米EUの脳のビッグプロジェクトも既に連携している。

 こうして研究基盤面ではデータ等が相互利用できるよう連携しつつ、一方で切磋琢磨しつつ競争していくことが、疾病等ヒトの命にもかかわる生命科学研究においては重要だと考える。

参考文献

・Y. Nusinovich (2024) “Decoding the brain”, Science; Vol.384, 858-859
・G. Novarino et. al. (2024) “Mapping the brain’s gene-regulatory maze”, Science; Vol.384, 860-861
・“Scientists map networks regulating gene function in the human brain”(2024/05/24)NIH HP

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔