第61回 2024年のライフサイエンスの重大ニュース
1.はじめに
ライフサイエンスの世界で2024年にどんな大きな出来事があったか。Science誌やNature誌は、毎年年末になると科学の重大ニュースを発表している。今年もそうなので、その中からライフサイエンス関係のどんな記事がランクインしているか調べてみた。
2.Science誌の評価
(1)2024年の10大ニュース
Science誌は2024年のブレイクスルー・オブ・ザ・イヤーに、以下の10件のニュースを掲げた。そのうち〇を付けた6件は、ライフサイエンス関連と思われるものである。
(第1位)
〇有効なHIV予防薬の開発
(以下は次点(横並び))
〇CAR-T療法による自己免疫疾患の治療
・宇宙望遠鏡JWSTの開発
〇RNA干渉を利用した農薬が市場化
〇海藻の窒素固定が細胞小器官の共生によりもたらされたことを解明
・新たなタイプの永久磁石を開発
〇真核細胞生物の誕生後早期に多細胞生物が誕生していたことを解明
・マントルの膨脹波により大陸の表面が形成されたことを解明
・スペースXのスターシップロケットが帰還・再利用に成功
〇古代のヒトゲノム解析から血縁関係の濃さを解明
以下、ライフサイエンス関係について簡単に説明する。
①有効なHIV予防薬の開発
HIVの有効なワクチンはこれまでなかなか開発できていなかった。しかし、ワクチンではないが、ギリアド社のレナカバビルという薬が暴露前予防(PrEP)として使用された場合、有効であることが分かってきた。アフリカや4大陸で実施された試験ではほぼ100%の有効性を示した。
レナカビルは、従来開発されてきたPrEPのようにHIVの酵素の活性部位に結合するものではなく、HIVのゲノムRNAをとりまくカプシドタンパク質に作用することで、HIVが核内に潜り込んで複製・転写されるのを防ぐ仕組みである。
なお、規制当局の承認は2025年半ば以降になりそうである。
②CAR-T療法による自己免疫疾患の治療
キメラ抗原受容体T細胞(CAR-T)療法は約15年前に血液系のがんの治療法として開発されたものである。それは患者の白血球からT細胞を取り出し、それに遺伝子操作を行って患者に戻すことにより、そのT細胞に、白血病やリンパ腫の原因となるがん性のB細胞を探し出させて破壊させるという仕組みである。
B細胞は自分自身に対する抗体を産生することで狼瘡、強皮症、多発性硬化症等の自己免疫疾患を引き起こす場合があり、それに対するCAR-T療法の適用が試みられた。ドイツのチームが自己免疫疾患の患者15人に対するCAT-T療法の結果、全員が免疫抑制剤が不要となる等、これまで世界で30人以上の患者で治療に成功している。
③RNA干渉を利用した農薬が市場化
今年、米国環境保護庁(EPA)は初めてRNA干渉(RNAi)を利用した殺虫剤を承認した。承認されたのはグリーンライト・バイオサイエンス社が発明したカランサという薬である。
同薬の対象となるのはコロラドハムシで、既存の化学物質に耐性を持つようになっており、世界中で毎年5億ドルの農作物の損失をもたらしている。コロラドハムシの幼虫がカランサが散布された葉を食べると、RNAが重要なタンパク質の発現を阻害し、昆虫は10日以内に死ぬ。
ただし十分な量のRNAにさらされるとRNAに対する耐性をもつようになる場合もあることが分かってきており、RNA殺虫剤は責任をもって使用しなければならない。
④海藻の窒素固定が細胞小器官の共生によりもたらされたことを解明
これまで大気中の窒素を固定してアンモニアに変え、体内で利用できるのはある種の細菌だけで、動植物にはできないとされてきた。
しかし、ある種の海藻はニトロブラストという小器官に窒素を固定する働きがあることが分かってきた。DNAの研究により、この小器官は、約1億年前に海藻に組み込まれた窒素固定シアノバクテリアが元になり、珪藻類では約3,500万年前に同バクテリアが取り込まれていた。
このような窒素固定珪藻を肥料として利用することが期待される。
⑤真核細胞生物の誕生後早期に多細胞生物が誕生していたことを解明
真核生物は約20億年前に誕生したが、その後10億年間はずっと単一細胞の形態の生物しかおらず、その後多細胞生物が誕生し、約5億5千年前から急速に増加したと考えられてきた。
しかし、今年初めに中国で発見された藻類様の化石は、16億年前の地層の含まれる場所にあり、それを顕微鏡で見ると円筒形細胞の連なりで構成され、植物細胞で見られるような細胞壁が隣接していることが分かった。その後インド、カナダ、オーストラリアで発見された同年代の化石と合わせ、真核生物の多細胞化は以前考えられていたよりもっと早く起きていたことが示唆された。
⑥古代のヒトゲノム解析から血縁関係の濃さを解明
これまで古代人のDNAの研究は、発見された数少ないサンプルに頼るしかなかった。しかしサンプル数が増えるにつれ、それぞれの提供元となった個々の古代人どうしが家系的にどのような関係であるかを推定できるようになってきた。
方法としては、遺伝子コード部分のうち、血統毎に維持されている部分を比較することで、調べた2人が6親等までのどれほど近い関係にあるかを推定できる。
遺伝学者と考古学者は協力して、最大8世代にわたる家系図を再構築した。これにより考古学だけでは知ることのできなかった過去の社会に対する情報が明らかになることが期待される。
(2)2024年のネガティブなニュース
なおScience誌は、ネガティブ面でのニュース(ブレイクダウン・オブ・ザ・イヤー)も4つ掲げた。そのうち〇を付けた2件は、ライフサイエンス関連と思われるものである。
〇パンデミックに対する国際協力の停滞
・戦争や経済の混乱による科学コミュニティへの悪影響
〇幻覚剤の医療利用が停滞
・環境についての国際協力が停滞
①パンデミックに対する国際協力の停滞
2021年5月、世界保健機構(WHO)の設置した独立委員会は、COVID-19により、数百万の死者、数兆ドルの経済的損失が積み重なり、パンデミックが壊滅的な人類の危機に変わったとしている。そのため同委員会ではパンデミックの再発防止のため、監視の強化、ワクチン・医薬品・診断への公平なアクセス、WHOの強化等の必要性を示し、世界的パンデミック条約の成立を目指したが、当初交渉の期限である2024年6月に間に合わなかった。
またH5N1型鳥インフルエンザの米国の乳牛での流行(第46回 米国の乳牛に鳥インフルエンザウイルスが蔓延)、MPOXによる猛威等においても、適切な対応がなされていないところがあった。
②幻覚剤の医療利用が停滞
ライコス・セラピューテクス社はエクスタシーとして知られる幻覚剤MDMAを、心的外傷後ストレス障害の治療薬として米国FDAに新薬申請した。しかし、FDAは臨床試験について、被験者が真の薬とプラセボのいずれを摂取しているかを知っていた等、不適切な部分があったとして、本年8月に承認を拒否し、代わりに同社に第3相臨床試験を求めた。
これは、同様に精神疾患の治療に用いられているシロシビンやジメチルトリブタミン等の幻覚剤の普及にとって妨げとなるかもしれない。
3.Nature誌の評価
(1)2024年の10人の人物
一方、Nature誌には2024年に科学の世界で目立った働きをした人物10名を「Nature’s 10」として挙げた。そのうち〇を付けた2名は、ライフサイエンス関連と思われる人物である。
・E.ペイク(より高性能の原子時計につながる発見をしたドイツの物理学者)
・K.カラス(カナダの大学院生とポスドク給与の引き上げに貢献した博士課程学生)
・李春来(月探査機「嫦娥6号」の採取試料の分析を主導した中国の地質学者)
・A.アバルキナ(偽装論文や乗っ取られた雑誌を発見するドイツの研究者)
〇徐虎吉(自己免疫疾患の治療に革新的手法を試みた医師・研究者)
・W.フリードマン(宇宙の膨張率に関する課題解決に貢献した天文学者)
・M.ユヌス(バングラディシュの指導者になった経済学者・ノーベル平和賞受賞者)
〇P.ムバラ(MPOXの発生について警鐘を鳴らし続ける疫学者)
・C.ベーア(スイスで気候変動政策を巡る法廷闘争に勝利した弁護士)
・R.ラム(天気予報を大幅に改善するため機械学習技術を開発する米国の研究者)
①徐虎吉(自己免疫疾患の治療に革新的手法を試みた医師・研究者)
中国上海の海軍軍医大学の医師・研究者である徐虎吉博士は、CAR-T療法を用いた自己免疫疾患の治療に成功、患者全員が寛解した。同博士の方法は、ドイツの研究チームの試験が対象患者から直接取った細胞を使用したのとは異なり、独立したドナーから取った細胞を使用した。これによりCAR-T療法の大量生産への期待が高まる。
なお本件は、上記2.(1)②で取り上げた「CAR-T療法による自己免疫疾患の治療」と関連している。
②P.ムバラ(MPOXの発生について警鐘を鳴らし続ける疫学者)
コンゴ民主共和国(DRC)のキンシャサの国立生物医学研究所の疫学者であるP.ムバラ博士は、同国で猛毒のエムポックス(旧称サル痘)の疑いのある集団感染を発見し、近く大流行することを警告した。彼は、このウイルスが国境を越えて広がる可能性を正確に予測し、同国のほか、各国政府に対応を働きかけた。このような発生に対し世界的な関心をより高めることで、迅速な対応と人命救助が可能になることを主張した。
(2)2025年の注目すべき人物
また、Nature誌は2024年に注目すべき人物として、以下の3人を挙げた。そのうち〇を付けた1名は、ライフサイエンス関連と思われる人物である。
・M.トムソン(2026年にCERNの次期所長になることが予定)
〇E.ホドクロフト(ウイルスゲノムを共有するためのオープンリソースハブ設立)
・D.トランプ(環境保護庁(EPA)や国立衛生研究所(NIH)改革を誓う米国次期大統領)
①E.ホドクロフト(ウイルスゲノムを共有するためのオープンリソースハブ設立)
E.ホドクロフト氏は、ベルリン大学社会予防研究所の分子疫学者である。彼女はウイルスその他の病原体の系統学に焦点を当て、様々な遺伝子変異の拡散と進化をマッピングしてきた。特にSARS-CoV-2やその他の病原体の感染経路を追跡するオープンサイエンスプロジェクトであるNextstrainプロジェクトを開発し、COVID-19パンデミック中に注目を集めた。
今後、各研究者がそのリソースを共有していくことで一層有用性が高まるものと期待される。
(3)2025年に注目すべきイベント
さらに、Nature誌は2025年に注目すべきイベントとして、以下の7件を挙げた。そのうち〇を付けた3件は、ライフサイエンス関連と思われるイベントである。
〇各種の減量(肥満)特効薬の開発・実用化が進展
・D.トランプ氏の大統領復帰により科学界に大きな影響
〇次のパンデミックに備え、WHOでの国際協力が進展するか
・スウェーデンの欧州核破砕源稼働、CERNのFCCの実現可能性調査終了等粒子装置進展
〇中国で脳コンピュータインターフェイス(BCI)技術の試験予定
・ブラジルでCOP30気候サミット開催。資金確保、プラスチック交渉等問題多し。
・衛星ミッション(NASA-印、ESA)による地球表面地図化や炭素循環での森林の役割解明
①各種の減量(肥満)特効薬の開発・実用化が進展
2023年はセマグルチドその他のグルカゴン様ペプチド(GLP-1)薬が肥満薬として顕著な成果を挙げた。
その後本年は特に目立った動きはなかったが、2025年には米国イーライリリー社のオルフォルグリプロンやレタトルチド、また米国アムジェン社のマリタイド等が承認に向け前進するとみられる。またGLP-1はパーキンソン病、アルツハイマー病等、他の疾病の治療への適用についても研究されている。
②次のパンデミックに備え、WHOでの国際協力が進展するか
パンデミック条約の協議は暗礁に乗り上げているが、それでも加盟国は2025年5月に合意文書を最終決定することを目指している。
なおWHOは今年8月、次のパンデミックを引き起こす可能性のある病原体リストを更新し、30種類の微生物を追加した(第53回 次のパンデミックは何になるか)。
本件は、上記2.(2)①で取り上げた「パンデミックに対する国際協力の停滞」と関連している。
③中国で脳コンピュータインターフェイス(BCI)技術の試験予定
中国国務院の工業情報化部は、医療リハビリテーションから仮想現実まで幅広い用途の脳コンピュータインターフェイス(BCI)デバイスを開発する計画を発表しており、その1つが感情アナライザー(NEO:Neuro Experience Optimizer)で、脳の感覚・運動皮質に8つの電極を配置するワイヤレスで低侵襲のBCIとして、麻痺のある人の手の動きを取り戻すよう設計されている。
2023年から臨床試験が始まり成果を挙げてきており、2025年には規模を拡大して実施する予定である。
4.記事に対する著者の感想
以上だが、著者が感じたことをいくつか述べたい。
(1)ライフサイエンス分野の比重
まず、Science誌の10大ニュースのうちライフサイエンス関係は6つ(HIV予防薬、CAR-T自己免疫疾患治療、RNA干渉農薬、窒素固定する細胞小器官の共生、多細胞生物の発生、古代ヒトゲノムの血縁性)、Nature誌の10人のうちライフサイエンス関係は2人(CAR-T自己免疫疾患治療、MPOXの発生)である。
ちなみに昨年(2023年)は、Science誌ではライフサイエンス関係は3つ(肥満治療薬開発、マラリアワクチン開発、アルツハイマー病治療(延命)薬開発)、またNature誌の10人のうちライフサイエンス関係は4人(雄マウスからの卵作出、肥満治療薬開発、マラリアワクチン開発、膀胱がん治療薬開発)だった。
毎年度のことだが、今年と昨年の話題を比べると全く変わっており、同じものが一つもない。いかにライフサイエンスの進展が激しいかよく分かる。なおScience誌のライフサイエンス関連の割合が増え、Nature誌は逆に減った。これを見ると、ライフサイエンスの分野としての趨勢については何とも言えない。Nature誌がライフサイエンス関係の人物を2人しか挙げなかったのは意外だった。
(2)両誌のライフサイエンス分野での重なり状況
また、Science誌の10大ニュースとNature誌の重要人物10人との比較では、ライフサイエンス分野のうち1つのみ共通していた(CAR-T自己免疫疾患治療)。
ただ焦点の当て方としては、Science誌はドイツでの研究に主眼を置き、Nature誌ではScience誌に取り上げられていない中国人研究者(徐博士)に焦点を当てた。まあScience誌が米国の雑誌だから中国関係のものを排除しているということでもないだろうが。
(3)本ニューズレターとの関連
筆者が今年のニューズレターで取り上げてきた各種トピックは、このCAR-T自己免疫疾患治療を含め、Science誌、Nature誌の重大ニュース・重要人物とほとんど重ならなかった。このニューズレターを発行以来、過去2年も似たようなものだったが、それでも1つや2つは予測が的中していた。それだけに、著者としては十分に反省しなければならない。
ただ、この結果が予想できなかったわけではない。著者として今年度取り上げてきたのは、大規模なプロジェクト、すなわち国際連携により、がんや、脳や、人体、あるいは動物や、はては宇宙に至るまで、DNAやRNA、タンパク質といった生体物質を調べつくそうという、オミックス系のプロジェクトが多かった。また、コンピュータやAIを利用して大量に解析したり新たなたんぱく質を作り出したりといった、工学系っぽい研究が多かった。そのような研究では、当然ながら大量のデータが得られ、そのようなデータを利用して新しいことが解明されることもあったと思う。こういった手法はヒトゲノムプロジェクト以降の生物学の大きな流れであり、その流れは止められない。
一方、科学者や人々の関心としては、それら力技でのデータ産生によるものでなく、1つ1つの自然現象や疾病と向き合い、研究者の創意工夫で独自の実験系を組んだり新たな観点を持ち込んだりして、それが発見につながるというものである。Science誌やNature誌が、そういった観点で、生命科学の正統派の研究成果を取り上げていると想定される。
本ニューズレターでも、生命科学本来の手法に立ち返って、面白い成果を探していくという努力が必要になるものと思われる。2025年は、このような観点を加味してトピックを厳選・紹介していけるようにできたらと考えている。
(4)トランプ米国次期大統領への懸念
なお、米国のトランプ次期大統領は、Science誌のブレイクダウン・オブ・ザ・イヤー、Nature誌の2025年に注目すべき人々、2025年に注目すべきイベントに軒並み登場した。
ライフサイエンス界にとっても、彼の再登場による影響は少なからぬものがあると思う。
このニューズレターで何度も示してきてはいるが(第44回 バイデンかトランプかで米国の生命科学はどうなるか)、(第57回 ハリスかトランプか゚で米国の生命科学はどうなるか)、実際に大統領就任後どうなるか、注目しつつフォローしていきたい。
参考文献
・J. Cohen et. al. (2024) “2024 Breakthrough of the year”, Science; Vol.386, 1209-1217
・S. Mallapaty et.al. (2024) “Nature’s 10 Ten people who helped shape science in 2024”, Nature Vol.636,
・M. Naddaf “Science in 2025: the events to watch for in the coming year”, Nature HP; 17 December 2024
(https://www.nature.com/articles/d41586-024-03943-9)
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔