第5回 ゲノム編集~ノーベル賞と特許を巡る争い・その2
引き続き、米国カリフォルニア大学バークレー校(UCB)のジェニファー・ダウドナ博士のチームと、ブロード研究所(ハーバード大学とMITが共同で設立した研究所)のフェン・チャン(Feng Zhang、張鋒)博士のチームによる、ゲノム編集技術を巡る特許争いの続きを述べたい。
前回は、UCB側は米連邦巡回区控訴裁判所に異議申し立てしたが、2018年9月にそれを却下する判定が下されたところまで述べた。
これで決着がついたと思いきや、米国特許庁(USPTO)の判決には不透明な部分が残っていた。その後、UCBに対しても「一分子型ガイドRNA(sgRNA)」に関し、2019年4月23日に特許登録がなされたが、同特許には真核細胞におけるsgRNAの技術の部分が重複していたとして、今度はブロード研側が2019年6月、インタ―フェアレンス(特許抵触審査)を行い、真核生物におけるsgRNAの技術は自分たちが先に発明したと主張したのである。
これについて、USPTOはまず現在の先出願主義に則り審議した結果、2020年9月10日の中間的裁定では、出願日を基準とした発明日はブロード研の方が47日早かったとして、同研究所がこの真核生物におけるsgRNAに関する権利を有するという判断を下した。
この決定に反論するため、UCB側では大学院生の証言や実験ノートを集める等新しい証拠集めを行った。USPTOの最終決定では、出願時期も踏まえたうえで、先発明主義の要素が反映されることになった。実際の発明時期の優位性は、①最初に発明の実施化を行った者に与えられるが、発明の実施化に後れをとった場合でも、②発明の着想で先行しており、かつその後に実施化に向けた誠実な努力をしていた場合には、その者に優位性が与えられる。
UCBは、①の発明の実施化に対し、2012年8月9日までにゼブラフィッシュ(=真核生物)胚での実験を行い、30の胚のうちの1つに変異が導入それたことを主張した。また、②の発明の着想の面で、sgRNAのCRISPR/Cas9系を哺乳動物細胞で機能させる新規アイデアが記載された実験ノート等を提出し、その着想がその後の実施化まで変化しておらず、誠実な努力をし続けていたと主張した。
判決は、本年2月28日に出された。USPTOは、実際の発明日においてもやはりブロード研が優位であるとの判断を下したのである。理由として、UCB側が主張した①について、メールの中に発明を確信していない旨の記載があったり、ゼブラフィッシュの実験は論文化されておらず、胚に導入された変異が非特異性である可能性に言及したりしていたこと、また②について、UCB側は着想後ゼブラフィッシュ胚やヒト細胞での失敗等による紆余曲折があり一貫したものとは言えないこと等が挙げられた。
UCB側は、この判決に関し再び米国連邦巡回控訴裁判所に控訴した。前回のインターフェアランスでは1年以上経ってから却下の裁定が下ったが、今回はどうか分からず、まだまだ特許論争は継続しそうな様相を呈している。
なお、両者の争いばかりが注目されているが、CRISPR/Cas9の基本特許に関しては、両者よりも早い出願日(2012年3月20日)を持つリトアニアのVilnius大学も権利主張をしていた。しかし当初の出願に真核細胞での実施例がなかったこと等から、権利範囲はin vitro系に限定されている。またこの他、両者の間の優先日を持つToolgen社やSigma-Aldrich社も別の観点からの特許取得を狙っている。以上の関係を大雑把に示したのが下図である。
これはあくまでCRISPR/Cas9の基本特許の枠組みであり、各応用分野でも特許が授与されてきている。特に農業食品分野では各企業が入り乱れた状況になっている。CRISPR/Cas9に基づくヒトのゲノム治療はまだ承認されていないが、それが近いものもある。2月8日には、米国Intellia Therapeuticsはトランスサイレンチンアミロイドシスと呼ばれる希少疾患に対し、CRISPR/Cas9を用いたゲノム治療法により、異常蛋白質の産生が大幅に減少し、持続効果も1年以上あると発表した。また、スイスのCRISPR Therapeuticsと米国のVertex Pharmaceuticalsのチームは、CRISPR/Cas9を用いた鎌形赤血球症の新たな治療法について米国食品医薬品局に承認申請を行う予定であるとしている。
これまで米国における特許の状況を見てきたが、日本ではUCBによる最も早い仮出願をもとに、真核細胞を利用したゲノム編集が成功したと認め、特許登録されている。一方、ブロード研の特許登録は認められず、構造を限定した特許のみが認められ、またVilnius大も米国と同様in vitroの基本特許のみ認められている。つまり米国とは異なりUCBが優位な状況になっている。
前回述べたように、学術の世界では、研究の先行争いではなく特許を巡って研究者どうしが争うケースは珍しい。ゲノム編集は、現在の生命科学研究にとって欠かせない最重要の遺伝子操作技術と言ってもよく、そのような基本技術が論争の対象になっているのは、今後の生命科学の発展にとってあまり芳しくない事態なのかもしれない。特許が重複しているものについては、ライセンス料を二重に支払わなければならない可能性もある。
一般に研究での使用は特許の適用対象にはなっていないが、研究に使用される製品や、医療・農業等への実用化段階になった際には、高額なライセンス料の支払いにより商品に価格転嫁され、消費者に負担がかかるおそれがある。かつて乳がんの原因遺伝子(BLCA1,2)の変異に対し、Myriad社が変異情報を特許として独占することで遺伝子検査料が跳ね上がったこと等を考えると、このような生命科学の根幹にかかわる特許は、取得してもライセンス料はとらないか又はできるだけ低価格にすることで人類全体の資産となることが理想ではあるが、研究者自身も特許論争に加わるような今回のケースを見ているとそれは甘い夢なのかと感じざるを得ない。
参考文献
・H. Ledford “Major CRISPR patent decision won’t end tangled dispute” Nature Vol.603, 373-374, 17 March 2022
・知財コラム「ゲノム編集 特許紛争~ノーベル化学賞の裏で~」
(https://pasona-kp.co.jp/column/detail/9)
2021年8月29日
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤 真輔