第3回 中国のライフサイエンス研究の歴史3 ~中央研究院と北平研究院~

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1. 中央研究院と北平研究院の設置

 1911年に孫文らによる辛亥革命が成功して中華民国が成立したが、その後、袁世凱や軍閥の台頭などの混乱期が長く続いた。ようやく1925年に、国民党による国民政府が成立し、政治的に比較的安定な時代が到来した。

 清末から辛亥革命以降に作られた大学は、混乱期における活動の停滞を経て、欧米や日本との交流を再開し、研究力、教育力の向上を目指した。

 1928年に国民政府は、学術研究振興の重要さに鑑み「中央研究院」を政府直属の最高研究機関として設立し、傘下に物理、化学、工学、地質、天文、動物、植物などの14研究所を南京や上海に設置した。さらに1929年に国民政府は、北平(現在の北京)地域に依拠した研究機関として、北平大学(現在の北京大学)の研究機構を一部統合整理して「北平研究院」を設立し、物理、化学、ラジウム、薬物、生理、動物、植物などの9つの研究所を傘下に設けた。

 中央研究院や北平研究院では、ライフサイエンス研究は動物学や植物学が中心であり、それに加えて生理学や薬学などの研究が実施された。

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2. 日本の侵略と国共内戦の時代

 国民政府の樹立と前後して、日本による中国侵略が激しさを増していった。日本軍は1931年には柳条湖事件(中国では918事変と呼ぶ)を起こし、1932年3月には「満州国」の建国を宣言した。さらに1937年、北京郊外において盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。日本軍は多数の都市を占領し、国民政府の首都は南京から西部の重慶に移転した。

 この日本軍の侵略により、北京、上海、南京など大陸東部にあった大学や中央研究院、北平研究院などは、大陸西部への疎開を余儀なくされた。

 1945年8月に日本軍が降伏し、大学や研究機関は元の活動地域に徐々に戻っていった。その後、国民党軍と中国共産党の人民解放軍による内戦が勃発したが、中国共産党が勝利し、国民党政府は台湾に撤退した。

 この時期には、ライフサイエンスの研究関連として、動物、植物、生理学などの分野で研究が進められた。ただ、社会全体が政変による混乱や戦争の破壊の中にあり、落ち着いた雰囲気で研究することは困難な時期であった。

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3. 秉志~中国の近代動物学の基礎を築く

秉志(1886年~1965年)百度HPより引用

 ここでは、この時期の代表的な動物学者である秉志(へいし)を取り上げる。秉志は、1886年に河南省開封に生まれ、1904年に北京の京師大学堂(現在の北京大学)の予科に入学した。この頃、ダーウィンの進化論を読み、進化論は中国古来の迷信を打破し中国国民を富強に導くものだと考えたという。

 京師大学堂予科を卒業した秉志は、新設された庚款留学生制度に応募して合格し、1909年に第1回の留学生として米国ニューヨーク州のコーネル大学農学部に入学した。専攻はハエを中心とした昆虫学であり、1913年に無事卒業し、理学学士号を取得した。その後も引き続き大学に残り研究を続けるとともに、留学生仲間と科学者の結社「中国科学会」を組織した。1918年にはPhDをコーネル大学から取得した。コーネル大学を卒業した秉志は、フィラデルフィアにあるウィスター研究所に移り、マウスの神経細胞成長についてポスドク研究を行った。

 秉志は1920年に帰国し、翌1921年に南京高等師範学校(現在の南京大学)生物系の教授となった。その後、南京に設置された中国科学会の生物研究所や、北京に設置された北平研究院静生生物調査所の所長を兼務した。さらに、中国動物学会の設立にも貢献し、1934年に同学会が発足した際には初代会長を務めている。

 秉志の研究は対象が獣類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫などと幅広く、それを分類学、形態学、生理学、生物化学、生態学など多くの学問的手法を用いて研究しており、結果として中国の動物学の基礎を打ち立てた。例えば、1920年代から30年代初期にかけて、中国沿海と長江流域の水生動物に対する調査を実施し、大量の標本を収集したうえで、分布と分類に係わる研究を行い、水生動物資源の開発ひいては漁業の発展に貢献した。また、アワビ、サザエ、ウミウシ、ナメクジなどの腹足類軟体動物についても関心を示し、中国の沿海、華北、東北、西北、新疆などの地域で多くの軟体動物の標本を採集し、多くの新種を鑑定した。

 1937年に日中戦争が勃発し、研究拠点のあった南京も北京も日本軍に占領され、標本などは無残にも破壊されてしまった。大学、中央研究院、北平研究院などは大陸の西部に疎開したが、病気であった夫人を抱えた秉志は、終戦まで8年にわたって上海に潜み、復旦大学などで隠れて研究を続行した。第2次世界大戦が終結した後、秉志は南京大学と復旦大学に復帰した。

 1949年に中華人民共和国が建国されると、秉志は中国科学院附属の水生生物研究所と動物研究所で研究を続行するとともに、全国人民代表大会の代表などを務め、国政にも参画している。秉志は研究者仲間とともに、住血吸虫の撲滅と植生保護のための自然保護区の提案を政府に行い、これが共産党中央や中央政府による政策実施につながった。秉志は1965年に北京で死去した。

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4. 参考資料

百度HP

・中国科学院植物研究所HP 「我国近代生物学的主要奠基人 —— 秉志」

http://www.ibcas.ac.cn/80/expertsCharisma/bingzhi.html

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