第4回 中国のライフサイエンス研究の歴史4 ~新中国による中国科学院などの設立~
1. 中国科学院の設立
1949年10月天安門で、毛沢東により中華人民共和国の建国が宣言された。新中国となってからは、科学技術や農業の振興、国防の発展が国家の重要任務となり、優先的に人材や資金が国の研究機関や大学に配分された。
新中国建国直後に、中央人民政府により中国科学院が設置された。中国科学院は、全国の自然科学及び社会科学分野の研究の中心であり、科学・教育・生産の緊密な連携を目指すものと位置付けられた。中国科学院は、それまでの科学技術・学術研究の遺産ともいえる中央研究院と北平研究院の施設や人員の接収を直ちに実施し、1950年6月にはライフサイエンス研究関係の生理生化研究所、実験生物研究所、水生生物研究所、植物分類研究所などを含む15の研究所を傘下に設置した。中国科学院は、その後急激に人員や予算を拡大し、やはり新中国建国後に充実強化されていった各地の大学とともに、ライフサイエンスにおける基礎研究や先端的な研究を担っていった。
2. 中国医学研究院、中国農業科学院などの設立
一方1956年に、医学・薬学を扱う研究機関として中国医学科学院が北京に設置された。これとは別に、中国の伝統的な医学・薬学を研究する組織として1955年に中国中医科学院が設置されている。さらに農業技術を扱う研究機関として、1957年に中国農業科学院が設置された。また人民解放軍の中にも、軍事医学を中心とした軍医大学などが設立された。
3. 五か年計画による研究開発の推進
1953年に「第1次五か年計画」が策定され、1954年には周恩来首相により工業、農業、交通輸送業、国防に関する「4つの近代化」が提唱された。1956年、科学技術長期計画である「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」が決定された。この綱要において、原水爆やミサイル開発政策である「両弾一星」戦略を含む12の重点課題が提唱され、ライフサイエンス関係では「農業、林業及び畜産業」と「医療及び健康」が、重点課題として位置付けられた。また、これら2つの重点課題を支える研究として生物学が言及され、生物学は農業、林業、医療などの科学技術の理論的基盤であり、植物学、動物学、微生物学、昆虫学、人間と動物の生理学、植物生理学、遺伝学、生化学、生物物理学、細胞科学、心理学、人類学と土壌科学に焦点を当てるべきとされた。
4. 丁穎~近代農学の父
この時代に関連する代表的なライフサイエンス関係の科学者や医師を紹介したい。
まず、近代農学の基礎を築いた丁穎(ていえい)を取り上げる。
丁穎は1888年に、広東省に生まれた。1910年に広州市の広東高等師範学校(現在の中山大学の一部)に入学し、在学中に日本への公費留学試験に合格し、1912年に東京の旧制第一高等学校の特設予科(清朝政府留学生受入れのために設置されたクラス)に留学して日本語を学んだ。1914年には、熊本にあった旧制第五高等学校に入学した。1919年の五・四運動に関わり一時帰国するも、再度訪日して東京帝国大学の農学部に入学した。同大学で稲作の研究に没頭し、1924年に学士号を取得した。
帰国した丁穎は、広東公立農業専門学校(現在の中山大学の一部)の教員となり、稲作育種場を設置し、優れたイネの品種育成や栽培技術向上を目指した。1937年に日中戦争が開始されると、丁穎の勤務する中山大学は大陸西部の雲南省に疎開を余儀なくされた。
第二次世界大戦で日本が敗戦となり、中山大学は広東省広州に戻って、丁穎は同大学の農学院院長(農学部長)となって教育と研究を続行した。新中国建国後も教鞭を執っていたが、1957年に中国農業科学院が設立されると、丁穎はその初代院長に任命された。
丁穎は、中国の稲作の起源と発展、稲作の区域区分、イネの品種系統の育成、及び栽培技術などを、40年にわたって系統的に研究した。中国大陸の各地方の気候と栽培されている稲を調査し、温度は稲作の分布を決める最も主要な生態指標であると分析した。そして、稲作が行われている地方全体を6つの地域に分け、その地域に適したイネの品種や栽培方法を研究している。また、雨の少ない地域など劣悪な環境に抗して生育する野生のイネを元に、品種改良を施すことにより60以上の優良品種を育成した。
1963年、75歳となった丁穎は、自らチームを率いて河北、山西、内モンゴル、寧夏、甘粛、新疆、陝西などの現地調査を行った。その後1964年に、病を得て北京で亡くなった。亡くなるまで中国農業科学院の院長を務めており、現役農学者を全うした生涯であった。
5. 沈其震~中国医学科学院の初代院長
沈其震は1907年に西部の重慶に生まれ、1923年に上海の同済大学医学院(現在の華中科技大学同済医学院)に入学した。この頃から国の将来を憂えて郭沫若らと交わり、革命運動に参加している。1926年に広東省の中山大学医学院に転入し医学習得も続けた。蒋介石から指名手配された沈其震は日本留学を決断し、1927年に東京帝国大学医学部に入学した。1931年東京帝国大学から医学博士号を取得して帰国し、北京協和医学院の研究員となった。
1933年には天津で診療所を開設し、患者の治療に当たるとともに、革命派の連絡拠点を提供した。1937年に日中戦争が開始されると、前線に赴き負傷兵の治療に当たったが、これが契機となって共産党軍(後の人民解放軍)の医療部門に加わることになった。1938年に共産党軍を取材訪問した英国のアグネス・スメドレーと面会し、医薬品援助などを申し入れている。1943年には当時共産党の本拠地のあった陝西省延安に赴き、軍の衛生部門のナンバーツーとなった。第二次世界大戦終了後の国共内戦時や新中国建国時には、沈其震は人民解放軍の元帥である葉剣英に従って、共産党や人民解放軍の医学顧問的な役割を果たした。
1956年に新中国の中国医学科学院が設置されると、沈其震は初代院長に就任するとともに、中央衛生研究院院長、大連大学医学部長などを務めた。文革中は迫害されたが、その後名誉回復し、農工党という民主会派の幹部を務めた後、1993年に雲南省昆明で亡くなった。
6. 童第周~世界初の魚類クローンの作製
次に、世界初の魚類クローンを作製に挑んだ生物学者の童第周を取り上げる。
童第周は1902年に浙江省に生まれ、1923年に上海の復旦大学に入学した。1927年に同大学哲学系心理学科を卒業し、1930年にベルギーのブリュッセル自由大学に留学して、カエルの卵子やホヤを用いた発生学の研究に没頭した。1934年に博士号を取得し、英国ケンブリッジ大学を短期間訪問の後、中国に帰国した。
帰国した童第周は、当時山東省青島にあった国立山東大学の生物系教授に就任した。1937年に日中戦争が始まり、青島にも日本軍が侵略してきたため、四川省に疎開した。日本の敗戦に伴い、1946年に青島に戻った。1948年に、ロックフェラー財団の招きにより渡米しイェール大学で約1年間の研究活動を行った。新中国建国後の1950年、中国科学院水生生物研究所青島海洋生物研究室主任となった。
童第周は1963年に、世界で初めて魚類のクローン作製に成功するという画期的な成果を挙げた。植物については、古くから挿し木などのクローン技術が農業、園芸で利用されているが、動物では胚や体細胞から取り出したDNAを含む細胞核を未受精卵に移植する「核移植」によってクローンを作製している。人工的な動物個体のクローンは、1891年にウニの胚分割により初めて作製された。1952年にガエルのクローンが作られた。これらの成果を踏まえ童第周は、1963年に、オスのアジア鯉のDNAを抽出し、メスのアジア鯉の卵に移植して、世界初の魚類のクローン作製に成功したのである。さらに文革期間中の1973年には、オスのアジア鯉のDNAをメスのヨーロッパ鯉の卵に移植し、初めての生物種間をまたがるクローンも作製している。
文革終了後の1978年、童第周は長年勤務した青島の海洋研究所所長を辞め、北京の中国科学院本部に移り副院長に就任した。しかし、翌1979年3月に参加した浙江省杭州の集会で倒れ、同月北京で病没した。
童第周の死後も中国のクローン研究の成果はめざましいものがあり、最近では2018年に、中国科学院神経科学研究所の孫強研究チームが世界初のクローンサル「中中」と「華華」を誕生させている。さらに中国は、この成果を元に遺伝子編集技術によるサルの作製も進めている。
参考資料
・中国農業科学院人事局HP 「两院院士」
http://renshi.caas.net.cn/rcgz/zjdw/lyys/36072.htm
・中国青年网HP「丁颖:稻田守望者」
http://qclz.youth.cn/dingying/wdld/201212/t20121211_2702821.htm
・淘名人HP「沈其震」 https://www.taomingren.com/baike/5986
・中国科学院HP 「纪念童第周先生诞辰110周年—引领中国克隆走向世界的先驱」
http://www.cas.cn/wh/SWXS/201205/t20120527_3585750.shtml
・中国科学院海洋研究所HP 「历任领导 童第周」
http://www.qdio.cas.cn/2019Ver/Overview/Preleader/201912/t20191230_5478228.html