第12回 ヒトからラットへの脳移植
米国スタンフォード大学の研究者らは、ヒトのiPS細胞から作ったミニチュアの脳を生まれてすぐのラットの脳に移植することにより、神経回路を形成させ、ラットの脳内で機能させることに成功した。そしてそのミニチュアの脳は、ラットの成長とともに脳内で大きくなり、複雑な構造になった。この研究は本年10月12日のNature誌に発表されたものだが、その実験手法は精神疾患のメカニズムの解明や治療法の開発に役立つ一方、倫理的な問題もはらむことになる。今回はこのことについて解説したい。
研究者らは、まずヒト由来のiPS細胞を培養し、2か月ほどかけて、大脳皮質の立体構造を模した直径数ミリメートルのミニチュアの脳(脳オルガノイドという)を作った。そしてこの脳オルガノイドを、生後2~3日の子ラットの脳に移植した。移植したのは、体性感覚皮質という、体の各部から触覚などの感覚情報を受け取って処理する領域である。なお拒絶反応を防ぐため、この実験では免疫不全のラットを用いた。
すると移植から6か月後、ヒトの脳オルガノイドとラットの脳の神経細胞は互いに結合し、神経回路を形成した。そして脳オルガノイドはラットの脳の3分の1程度を占めるまでに成長したのである。
その後、研究者らは成体になったラットのヒゲに空気を吹きつけて刺激を与えた。前述のように、ヒトの脳オルガノイドを移植したのは、ヒゲなど触覚からの感覚情報を受け取って処理する領域だった。すると、ヒゲ刺激によりラット脳内にあるヒトの脳オルガノイドの神経細胞が活性化したのである。
またこれとは別に、研究者らは光により細胞活動を制御する「光遺伝学」の手法を用いて実験を行った。青色レーザー光を照射するとニューロンが活性化するように改変したヒトの脳オルガノイドをラットの脳に移植し、その後、ラットの脳内のヒトの脳オルガノイドを光で刺激しながら飲み水の注ぎ口(スパウト)に誘導して水を飲む訓練をした。すると、ヒトの脳オルガノイドに青色パルスを照射しただけで、ラットはスパウトに向かうようになった。すなわち移植されたヒト組織が、ラットの報酬系と呼ばれる神経回路に結びついて機能したのである。
研究者らはさらに、自閉症やてんかんに関連する重篤な希少遺伝性疾患である「ティモシー症候群」の患者の細胞から、脳オルガノイドを作った。ラットの左右の脳の片方に患者のミニ脳もう片方に健常者由来のものを移植して数か月後に比較すると、患者の脳オルガノイドの神経細胞は健常者の脳オルガノイドに比べ小さく、周辺の細胞と連結する構造も少ないことが分かった。このような手法を用いて、統合失調症など他の脳疾患の研究にも応用できる可能性がある。
今回使った脳のオルガノイドは、他の器官のオルガノイドと同様、ヒトの発生と疾患をモデル化するための実験系として期待されている。ただ、生体外で培養されたオルガノイドは血管が発達しないため、栄養を受け取ることができず、長くは生存できない。このため、同研究者らはオルガノイドを正常な器官と混ぜ、生体とともに発生させて機能を調べることを考えついたわけである。特にこれを脳オルガノイドで行うことは意味があり、神経回路がどのように発達するか調べることで脳の発達や、また精神疾患の発生メカニズムに対する様々な知見が得られることが期待されるのである。
一方、倫理上の問題がある。動物の細胞や組織をヒトに移植すると、本欄でも紹介したブタの心臓移植のように安全性に細心の注意を払わねばならない。しかし、その逆に、動物にヒトの細胞や組織を移植した場合は、安全性よりもむしろ倫理的な問題が出てくる。移植するのが通常の組織であれば問題はなく、以前からさまざまな研究が行われてきた。ヌードマウスにヒトのがんを移植する担癌マウスなどはよい例だろう。しかし、ヒト脳の動物への移植は倫理面での課題も指摘される。すなわち、移植によって動物がヒトのような認知機能を持つようにならないかとの懸念である。
昨年、全米科学・工学・医学アカデミーが主催したパネルでは、人間の脳オルガノイドはまだ原始的すぎて、意識を持ったり、人間のような知性を獲得したり、法的規制を必要とする可能性のある他の能力を獲得したりできないとする報告書を発表した。また、今回の研究者らも、オルガノイド移植はラットの発作や記憶障害などの問題を引き起こさず、動物の行動を大きく変えなかったようだと主張している。だが、今回は移植先が神経反射に関わる部位でヒトに特異的なものではなかったが、もし移植先が前頭葉などヒトに特徴のあるような思考や感情の中枢部分だったらどうだろうか。
この研究が米国でどのような規制になっているか承知していないが、日本ではこのような研究に対する明示的な規制はない。クローン人間の産生や人間との境界があいまいな動物の産生を規制するための法律である「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」や、それに基づく具体的な指針である「特定胚の取扱いに関する指針」の規制対象とはなっていない。また今回のようにES細胞を扱う機関は、「ヒトES細胞の使用に関する指針」に基づき機関内で実験計画の承認を受ける必要があり、意識を持ったり、人間のような知性を獲得したりできないことを機関内の倫理委員会に説明する必要があると思われるが、指針上の明示的な禁止行為とはなっておらず、法的な罰則もない状況である。
本研究については今後、研究の進展に伴い、大きな倫理的議論を呼びそうな予感がする。ただ、今回の研究成果が得られたことで、うつ病や統合失調症等も含めその研究意義が広く認識されるようになると、単に倫理的観点からの一律規制には研究者や患者等から反対の声も上がるかもしれない。今後、リスクベネフィットの議論を行いつつ妥協点を慎重に見いだす必要がありそうである。
(参考文献)
・O. Revah et. Al. (2022) “Maturation and circuit integration of transplanted human cortical organoids”, Nature Vol.610, 319-326
・S. Reardon (2022) “Human brain cells implanted in rats prompt excitement – and concern” Nature Vol.610, 427-428
・大西淳子「米Stanford大、ラットの脳にヒト脳オルガノイドを移植し神経接続を確認」日経バイオテク2022.10.25
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔