第30回 EUのヒト脳プロジェクトで何が得られたか

 EUのヒト脳プロジェクトは、発足から10年を経た今年9月で終了することになる。今回は同プロジェクトの背景、経緯、成果や意義について述べる。

 脳は、生命科学に残された最後の秘境と言われる。その解明に向けて、各研究者はしのぎを削っている。特にヒトの脳は複雑であり、EUを始め、米国、日本、中国、さらに韓国やイスラエル等でも大規模・組織的な国家プロジェクトとして行われるようになっている。

 このうち、EUのプロジェクトであるヒト脳プロジェクト(Human Brain Project:HBP)は今から10年前の2013年に発足した。

 同プロジェクトの前身になったのは、スイスのローザンヌ連邦工科大学で実施されていたBlue Brainプロジェクトだった。これはマウス等のげっ歯類から始め、最終的には生きたヒト脳の動的なコンピュータシミュレーションモデル、すなわち人工脳の開発を最終目標としていた。
 それがHBPに受け継がれ、HBPではスパコンを利用した脳のシミュレーションモデルの開発と脳情報のデータベースの開発を主目的にすることになったわけである。

 さて、EUは従来から大型の研究開発に対する助成を行うプログラムを持っていた。これを枠組計画(Framework Programme:FP)と言い、第7次FP(2007年~2013年)まで実施されていた。
 その後継プログラムはホライズン2020(Horizon 2020)と命名された。このHorizon 2020の中で、FET(Future and Emerging Technologies)フラグシップ・プロジェクトが設けられることになった。これは、EUが国際連携の中心となるとともにEUの産業を促進することを目的として特に大規模な研究開発助成を行おうとするものだった。

 応募されたものの中から2課題を選定し、それらについて10年もの期間をかけ、多額の資金を投入して計画的に進めていくことになった。選ばれたのは、一つがグラフェン、これはシート状になった炭素の集合体で、スマートフォンの発光デバイス等への利用が期待される物質についてのプロジェクトだった。そして、もう一つがこのHBPだったのである。

 HBPは、基礎及び臨床神経科学の小規模プロジェクトと並行して、脳とその疾患の機能と組織をより深く理解するために必要なツールとインフラを開発しようとした。より具体的には、先述のように、ヒトの脳をスパコンでシミュレーションしたモデルを作製することにより理解することだった。

 HBPには欧州の140以上の大学・病院・研究センター、500人以上の科学者やエンジニアが参加し、連携して取り組んできた。そしてHBPには10億ユーロ(11億米ドル)の資金提供が予定されたが、これまでEUからの4億600万ユーロを含む6億700万ユーロを受け取り、4段階で放出され、各段階で助成金を争う研究室に少しずつ分配されてきた。なお、HBPはEUから助成される12のプロジェクトと助成されないパートナリングプロジェクトがあり、資金提供を受けたのは前者についてである。

 しかし、HBPの発足以来、そのやり方に対し、さまざまな批判があった。

 その一つは、目標達成のための方法論への批判だった。これはHBPの発足初期から脳認知学者らが中心になって行ったもので、HPBでは認知科学的な研究が十分行えるようになっていないため、脳の理解には迫れないというものだった。
 脳の仕組みについて合意された理論は存在せず、その状態でやみくもに脳のシミュレーションモデルを構築することは合理的でないとした。そして、HBPは脳のシミュレーションを行うため、分子、細胞、解剖などの脳データを出発点とする「ボトムアップ」型の研究を重視しているが、むしろ人間の行動や人間やマウスなどの脳内の電気活動の記録を基に脳の仕組みを巨視的なレベルで理解し、その仕組みを推測していくという「トップダウン型」の研究を行うべきだとしたのである。
 その後、かかる認知科学的研究もHBPの中でサブプロジェクトの1つとして認められることになったが、研究者間の溝が埋まらずHBPを去る研究者もいた。

 また、HBPではブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)やブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)が助成されていないという批判もあった。
 HBPにはロボット工学についてのサブプロジェクトが枠組みとして含まれているが、実際にはBMIやBCIの研究には助成されていないということで、関連の研究者らからの批判があがったのである。(その後、実際に助成がなされるようになったか否かは把握していない。)

 このような経緯もあり、結局、HBPの当初目標として挙げられていたヒトの脳全体の動的シミュレーションは達成できず、不完全な状態での一部のシミュレーションにとどまった。このようなわけで、HBPの成果として、科学的な業績を挙げる専門家は少ない。

HBPの成果の一つ。ヒト脳の側頭葉のニューロン回路を
デジタル再構築したもの。(Nature誌より)

 一方、HBPはその活動を通じ、目標を共有する科学者のコミュニティを形成したと考えられており、それは一つの成果であるとも考えられる。

 特に、研究者がデータを扱い、モデリングを実行し、脳機能のシミュレーションを行うのを支援するため、2021年4月から、HBPの活動により開発されたEBRAINSというプラットフォームが提供されている。これは研究者に幅広いデータを提供し、欧州最先端の研究施設、スーパーコンピューティングセンター、診療所、テクノロジーハブの多くを1つのシステムに接続する仮想プラットフォームである。
 EBRAINSで提供されるデータやツールを用いて、世界中の科学者がシミュレーションやデジタル実験を行えるようになると期待されている。

 HBPのレビューはこれらを踏まえ、欧州委員会で本年11月に開始され、2024年1月に公表される予定になっている。
 なお、欧州委員会と加盟国は、HBP終了後の次の段階を計画している。新たな計画では、従来のプロジェクトの延長線上として、創薬の推進や脳障害の治療法の改善を目的とした、個別化された脳モデルの開発・使用に重点が置かれることになると考えられる。
 だが、今後のプロジェクトでは、過去にHBPを悩ませたような、研究方針の違いからくる論争を避ける必要がある。そのためには大きな共通目標を掲げて行っていく一方で、小規模で焦点を絞った研究や、野心的な統合プロジェクト等も合わせて支援する必要があると考えられている。

 なお知識・ノウハウの共有、資金の効率的利用等のために、EU内にとどまらず、国際的な連携が重要なのは言うまでもない。
 そのような観点から、2017年から、EUのほか、日本、韓国、米国、オーストラリア、中国、カナダの各国の脳プロジェクトが協定を結びInternational Brain Initiative (IBI)という脳科学の国際連携に関する取組が進められている。日本からはIBIには革新脳や国際脳(表参照)が参画している。そうした連携との関係からも、EUの今後の動向について着目していきたい。

(参考文献)

・M. Naddaf (2023), “Scientists aimed to recreate the brain in a computer. How did it go?”, Nature; Vol.620, 718-720
・「ブレインテック最新動向2022」株式会社日本総合研究所先端技術ラボ(2022/4/15)
https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/column/opinion/pdf/13361.pdf
・E. Mullin (2021), “How big science failed to unlock the mysteries of the human brain”, MIT Technology Review (2021/8/25)
https://www.technologyreview.com/2021/08/25/1032133/big-science-human-brain-failure/
・「欧州における脳情報関連技術の研究開発動向」国立研究開発法人 情報通信研究機構(欧州連携センター)
https://www.nict.go.jp/global/lde9n2000000bmum-att/re201803_1.pdf

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔