第11回 現在の中国におけるライフサイエンス研究2~ゲノム編集技術の進展その2~

 前回、中国におけるヒト受精卵の改編の事例を取り上げたが、その後も中国のゲノム編集技術は発展を続けた。

1. ゲノム編集用の新たな酵素の発見(河北科技大学の例)

(1)事実関係

 河北省石家庄市にある河北科技大学のハン博士らは、2016年5月、CRISPRに代わるNgAgoという新たな酵素が哺乳類のゲノム編集に用いることができるとして、Nature Biotechnology誌に発表した。同誌によると、非常に正確に目的の遺伝子を編集でき、CRISPRのように読み違えるケースはほとんどなく、認識できる範囲も広く、用途が広がるとされており、脚光を浴びた。

 だが同技術について、他の研究室で十分な再現性が得られず、当該論文が捏造ではないかと物議を醸した。この状況に対応するため、ハン博士らは8月にネット上(Addgeneという遺伝子情報のレポジトリー)にその詳細なプロトコルを掲載した。
 しかし、同年11月、Protein & Cell誌とCell Research誌に、ハン博士らの論文を否定する旨の論文が掲載された。前者はうまくいかなかった再現実験をリスト化したものであり、後者はゼブラフィッシュでの実験結果を踏まえ、NgAgo技術は遺伝子の発現を抑えることはできるが編集はできないとするものだった。
 さらに、最初にハン博士らの論文を掲載したNature Biotechnology誌も不成功に終わった再現実験に関するレポートを掲載し、ハン博士らに不明な点を明らかにするよう求めた。

 2017年8月、ハン博士らはNature Biotechnology誌に声明を投稿し、自分自身も含め、研究コミュニティによる再現実験できない状態が続いたことを理由に、論文の取り下げを宣言した。
 河北科技大学では、ハン博士らの業績により2億2,400万元を拠出して遺伝子編集センターを設立する予定だったが、同計画は暗礁に乗り上げた。また、ノボザイム社 は、河北科技大学に特許使用料を支払い、同技術を用いた酵素製造を行う意向だったが、同様に頓挫したようである。

(2)本件に関する考察

 これまでゲノム編集技術の主要な発明は米国の機関によってなされてきており、とりわけ最も有用なCRISPR/Cas9の特許は同国Broad研とCalifornia大学Berkeley校の研究者らが激しい主導権争いを演じてきた(世界のライフサイエンス研究第4回 ゲノム編集~ノーベル賞と特許を巡る争い・その1、及び第5回その2を参照されたい)。
 本技術は生命科学研究には不可欠な技術となり、個々の研究者がキットを用いて容易に利用できることから、市場が拡大している。NgAgoはその寡占状態に風穴を開け、シェアを大きく変えうる存在になる可能性があった。

 こうした新技術の開発を中国の研究者が行ったことは注目に値する。同国の研究は一般的に米国等の研究の追随であり、実験系や使用動物・組織・細胞等を変えたりというものが大部分だった。それゆえ、こうしたイノベーションが出てくることは同国の科学技術の進展を示すものといえるだろう。
 一方で、各種状況を踏まえるとハン博士らは意図的に不正を行おうとしたわけではなかったと考えられる。2018年9月に河北科技大学が主導で行われた本件の調査でも、ハンの発見には欠陥があるものの、ハンとハンのチームは科学界を欺くつもりはなかったと結論付けた。だが、彼らが競争の激しさから功を焦るあまり慎重に実験を繰り返すことなしに投稿したことも否めない。

 なお日本でも数年前に日本ゲノム学会が設立され、各種技術開発の発表は行われているものの、中国と同様、既に開発された技術の改良等が大部分で全くの新技術の発明はまだである。特許も海外に独占されている現在、ゲノム編集に係わる全く新たな技術開発が期待される。

2. 中国における遺伝子治療の臨床実験の開始(四川大学と北京大学の例)

 この頃より、ゲノム編集技術を用いた遺伝子治療の臨床試験が始まった。四川大学の研究者らは、転移性の非小細胞肺がんの患者に対し、CRISPR/Cas9を用いて遺伝子治療の臨床試験を行うことについて、2016年7月に機関内審査委員会の認可を得、同年10月から同国の西中国病院で臨床試験を開始した。これはCRISPR/cas9技術による遺伝子治療としては世界でも初の試みになった。なお、CRISPR/Cas9以外のゲノム編集技術を用いた遺伝子治療としては、これ以前に米国においてHIVの患者に対する臨床試験が行われている。

 この試験は、同がん患者のうち、化学療法や放射線療法の効果がなかった者に対し、患者自身の免疫細胞を取り出してCRISPR/Cas9技術によりゲノム改変を行い、それを再び患者に投与するものだった。標的とする遺伝子はPD-1という、細胞の免疫反応を抑制するタンパク質をコードものであり、同タンパク質が機能することが、がん細胞が増殖する一因になっている。このためCRISPR/Cas9技術により当該遺伝子をノックアウトすることで、免疫細胞ががん細胞を攻撃するようになることを狙っていた。

 さらに2017年3月、北京大学の研究者らが膀胱がん、前立腺がん、腎臓がんに対し、臨床試験を開始する意向を表明している。この事例がその後どうなったか明確になっていないが、中国では2016年から国の5か年計画の中で「ゲノム編集」がクローズアップされており、それ以降、特に体性幹細胞でのゲノム編集の実施例は急増したのである。

 次回は、世界のライフサイエンス研究界に激震をもたらした、ゲノム編集による双子のベビー誕生について取り上げる。

参考資料

○河北科技大学関連

・F. Gao et. al. (2016) “DNA-guided genome editing using the Natronobacterium gregoryi Argonature” Nature Biotechnology, Vol. 34, 768-773
・S. Burgess et. al. (2016), “Questions about NgAgo”, Protein & Cell; Vol. 7(12), 913-915
・J. Qi et. al. (2016), “NgAgo-based fabp11a gene knockdown causes eye developmental defects in zebrafish”, Cell Research; Vol. 26, 1349-1352
・S. H. Lee (2017), “Failure to detect DNA-guided genome editing using Natronobacterium gregoryi Argonaute”, Nature Biotechnology; 35, 17-18
・F. Gao et. al. (2017) “Retraction: DNA-guided genome editing using the Natronobacterium gregoryi Argonature”
・D. Cyranoski (2018) “University clears NgAgo gene-editing study authors of deception”, nature.com

○四川大学関連
・D. Cyranoski (2016), “First trial of CRISPR in people”, Nature; Vol. 535, 476-477

○北京大学関連
・D. Cyranoski (2016), “CRISPR gene editing tested in a person”, Nature; Vol. 539, 479

ライフサイエンス振興財団理事長 林 幸秀
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔