第20回 史上初の昆虫の脳の完全なマッピングが完成

 本年3月、Science誌に、英国ケンブリッジ大学のグループが12年もの歳月をかけて、ショウジョウバエ(キイロショウジョウバエ)の幼虫の脳の完全なマッピングを完成させたという論文が掲載された。今回はこれについて解説したい。

 脳のマッピングとは、脳に存在する神経細胞(ニューロン)や連結部位(シナプス)の位置関係を明らかにすることである。それによってできた神経細胞同士のつながりを示したもの、つまり配線図をコネクト―ムと言い、それを解明することによって信号が脳内をどのように流れ、それが認知、思考、学習、行動といったさまざまな脳の働きににどうつながるのか解明されることが期待される。

 ただし、そのような脳のマッピングを行うのは容易ではない。そのような位置関係を知るには、脳を薄くスライスしたものを電子顕微鏡で何枚も観察して地道に全体像を描くという方法によらねばならなず、その作業は非常な労力を必要とする。このため、これまで脳全体のマッピングが完成しているのは、線虫、海産動物ホヤの一種であるカタユウレイボヤの幼生、海洋性環形動物であるイトツルヒゲゴカイの幼虫の3種にすぎない。これらの生物の脳ではせいぜい数百のニューロンが数千のシナプスでつながっているだけで(といってもそれなりの数だが)、しかも高等な動物のように脳が左右には分かれておらず、単純な構造だった。

 これに対し、今回ケンブリッジ大学のグループが解明したショウジョウバエの幼虫の脳は、はるかに複雑だった。それは左右に分かれた脳構造をしており、また3016個のニューロンが54万8000個のシナプスで結合されていた。芥子粒のような脳にそれだけの構造が詰め込まれていることを、彼らは従来と同様の方法を用いて地道に解明していった。電子顕微鏡を使うことにより、無数の組織試料をスライスした。そしてそのスライス一つ一つを画像化し、個々のニューロンとシナプスの接続を追跡したのである。ずいぶん根気を要する方法であり、12年かかったのもうなずける。

 ではその結果、どのような発見がもたらされたか。
 まず、ニューロンの接続形態が多様であることが分かった。ニューロンはこれまで、長い軸索の末端部から信号を発信し、それを樹状突起と呼ばれる部分で受信すると考えられ、それ以外の接続形態はごくマイナーな存在だと考えられてきた。しかし今回の全脳マッピングにより、軸索から樹状突起に連結されているものは接続全体の約3分の2にすぎないということが分かった。軸索どうしが連結しているものが約4分の1あり、さらに樹状突起同士が連結しているものや樹状突起から軸索に逆連結しているものもあるということが分かったのである。

神経細胞(ニューロン)と連結部位(シナプス)。通常はこのように軸索の末端から次の神経細胞の樹状突起につながる。(Life・Science・Edu.NETより引用)

 また、接続形態に応じてニューロンの分類を行ったところ、93種類のニューロンが存在することが分かった。これまでニューロンは主に外観の特徴により分類されており、機能についてはあまり考慮されていなかった。しかし接続形態による分類が可能になったことで、今後そのような分類に関する研究が進展していくことが期待される。

研究結果より導かれたショウジョウバエの幼虫の脳の各神経細胞の形態(左図)、及び神経細胞細同士の結びつきを調べた実験結果(右図)(Science誌より引用)

 今回の研究では、ある地点から発せられた信号が脳全体にどのように伝播するかを調べるためのアルゴリズムも開発された。それにより信号を追跡したところ、脳の片側の神経細胞に対する刺激が、もう片方の脳にある神経細胞に、脳全体を横切って伝わっていることが分かった。

 また、脳内のニューロンの約4割は反復ループ構造になっていること、つまり入力された信号が出力先に伝えられた後、主力先からフィードバック的に再度上流に伝わることで、繰り返し何度も入力されていることが分かった。特に学習に関連する脳回路ではその反復性が著しいことが分かった。これまで脳の信号は一方向に一回だけ流れていくと考えられていたが、このようなループ構造の存在が「記憶」の仕組みになっているとも考えられる。

 さらに、ショウジョウバエの脳には「ショートカット接続」、すなわち処理過程をスキップするような接続が存在していることが分かった。現在の最先端の人工知能(AI)はこのようなショートカット接続により計算能力や処理速度を向上させることに成功しているが、今回の研究は、幼虫の脳にも同様のショートカット接続が存在しており、AI同様、処理速度向上に寄与している可能性があることが分かった。

 今後の目標として、彼らはショウジョウバエの成虫のコネクト―ムの解明を目指すとしている。成長につれ脳のニューロンの結びつきは複雑化するため、当面の目標としては妥当である。だが将来的には、生命科学の最後のフロンティアとも呼ばれるヒト脳の解明が期待される。現在、ヒトの脳については、部分的な活動を観察できるだけで、コネクト―ムを作製する技術はまだない。だが今回のように、複雑ながらコンパクトなショウジョウバエの脳での各種発見を通じ、ヒトの脳の解明が大きく進展する可能性が広がる。

 脳の両半球の保有情報がどのように統合されて認知・行動へつながるか、反復ループ構造が記憶や学習の仕組みにどうつながるか、意思決定等特定の行動に関係する神経細胞構造は何か、等々。さらに、アルツハイマー病やパーキンソン病等において、脳の接続様式の変化を解析することで予防法や治療法の開発が期待される。また人間の行動学習の効率化や高度なAIの開発に生かせるかもしれない。ただしそのためには今後、ヒトや高等動物のコネクト―ム解明のための技術面でのさらなるブレークスルーが不可欠だろう。

(参考文献)
・M. Winding et. Al. (2023) “The connectome of an insecrt brain”, Nature; Vol.379,
・M. Naddaf (2023) “Gigantic map of fly brain is a first for a complex animal”, Nature; Vol.615, 571
・川勝康弘、海沼賢(2023.3.10)「昆虫の「全脳マッピング」にはじめて成功!」ナゾロジー(https://nazology.net/archives/123196)

ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔