第16回 現在における中国のライフサイエンス研究7~中国の精密医療~

 ゲノム科学の成果の実用化として、近年注目されているものに精密医療がある。中国は2016年より、国家科学技術イノベーション第13次五か年計画及びその関連計画のもとで、精密医療プロジェクトを実施している。2021年から開始された第14次五か年計画でもその方向性は変化していない。

1.精密医療とは

 精密医療(precision medicine)とは、いわゆる個の医療(personalized medicine)を意味し、各個人の特性に応じた医療を指す。人々をゲノムデータのほか、臨床データ、健康データ、環境データ等を踏まえて類型化し、その特性に合った適切な予防・治療を選択していくものである。個の医療の基となる概念は特段新しいものではなく、例えば一世紀以上前から行われている血液型に応じた輸血治療等、医療従事者はこれまでも患者の特性を見つつそれに適した療法を選択してきた。

 近年、患者の遺伝子型(ジェノタイプ)の違いに応じた医療が可能になるにつれ、それはオーダーメイド医療、テーラーメイド医療など、様々な名称で呼ばれてきた。オーダーメイド医療等は、ゲノム情報をもとに患者にあった特別の治療を一から構築していくという意味合いがあったが、精密医療は、特定の疾病への罹患のしやすさ、予後の状況、特定の治療に対する反応は個々で異なるため、それによって人々を分類することで予防や治療のための介入を行う者と行わない者を分類し、無駄な治療の防止やそれによる費用の軽減を図るという意味合いがある。

 そのために、人々をゲノムだけでなく各種のオミックス、医療データ、健康データ、環境データ等、できるだけ多くの情報・データをもとに類型化したうえで、いくつかの選択肢の中からその個人に最も適した予防法や治療法を選択していくものである。精密医療に参加する人数が増えれば増えるほど、同じ分類に入る者が多くなるため、1人当たりの費用は安くなりメリットは大きくなる。

2.先行する国々における精密医療

(1)アイスランド

 多くの国民の遺伝子解析を世界に先駆けて実施したのは、北大西洋に位置する小さな島国のアイスランドである。アイスランドの企業であるdeCODE社は、同国人のゲノム収集・分析を1998年より実施し、国民全体33.3万人の3分の1をカバーする10万人以上の遺伝子配列を特定した。このアイルランドの動きは、精密医療の先鞭をつけたものと言われている。

(2)米国

 精密医療という名称が初めて出現したのは、2015年1月の米国オバマ大統領の一般教書演説であった。同演説の中でオバマ大統領は、精密医療イニシアチブ(Precision Medicine Initiative)に触れ、米国国立衛生研究所(NIH)を中心として国民の各種データを収集・分析し精密医療を推進しようと提唱した。現在、精密医療イニシアチブでは、以下の5つの取組みが行われている。

〇参加者の全ゲノム解析を行う。
〇電子カルテの情報に加え、健康に関する様々な生体情報を収集する。
〇ウェアラブル機器をはじめとする様々な機器開発を行う。
〇膨大なデータを収集し解釈する情報科学を発展させる。
〇個人情報保護、倫理的問題の解決等、研究参加者から理解を得るための社会的取組みを行う。

 同イニシアチブでは、百万人以上の米国人ボランティアを参加させ、ゲノムをはじめとする生体情報等を含めたコホート研究を行うことにより、健康や疾病の理解を促進し、データ共有を通じて新たな研究の基盤を構築していく活動を進めている。

(3)英国

 英国ではオバマ演説より前の2012年に、ヒトゲノム戦略グループの報告書として10万人ゲノム(UK100K)が提案され、2013年にゲノミックス・イングランドという非営利組織が発足した。同組織を中心に、国営保険制度(NHS:National Health Service)のカルテ情報データベースと診療ネットワークを駆使して10万人の全ゲノム解析を行い、そのデータベースに基づく個の医療と医療費の最適配分を目指している。当面は、がん患者(正常組織とがん組織)と希少病患者(発端者とその両親のトリオ解析)に焦点を当てて、患者のゲノム情報とカルテ情報を収集してきている。さらに、2023年を目途に500万人のゲノム解析を行うべくプロジェクトが進行している。

 なおNHSの電子カルテ情報については、NHSの患者であれば自身の診療情報にアクセスすることができる仕組みも整備された。英国は単なる研究としてではなく、ゲノム情報を医療に還流しようと努力している。

(4) 欧州(EU)

 EUにおいては、2014年から2020年までの研究・イノベーション推進のための枠組み計画であるHorizon2020のもと、関連のプロジェクトが行われた。ヘルスケア関連では、欧州版の精密医療に相当する「個別化された健康とケア」プロジェクトにより、健康的かつ社会参加を続けられるようなエイジングを促進するため、ブレークスルーとなる研究や抜本的な発明のための支援が行われた。ただここでは、同プロジェクトでは米国や英国のように大規模コホート等を欧州全体で行うことは想定されなかった。

 Horizon2020の後継計画であるHorizon Europeにおいても、「個別化医療イニシアチブ」が実施されることとなる。同イニシアチブでは、個別化医療のためのプラットフォーム作成が提唱され、ヒトの疾病と治療の過程で個々の細胞と組織がどのように変化するかを測定し、AIと機械学習を利用して、生物学的に意味のあるデータの重要パターンを明らかにすることを目指している。

 この他、欧州内での協力活動として2018年に、「百万以上ゲノムイニシアチブ」が発足した。英国等を含め約20か国が参加し、技術面・倫理面等での課題解決を目指すプロジェクトである。加盟国内で個人データの保護等にも十分配慮しつつ、少なくとも百万個の配列決定されたゲノムを利用可能にすることを目指しており、精密医療の推進に役立つものと期待される。

3.中国の精密医療プロジェクト

(1)概要

 中国は2016年3月、精密医療を第13次5か年計画の目玉プロジェクトとして立ち上げ、2016年から2020年までの5年間に12億元(約240億円)の資金を投入することとした。同プロジェクトでは、2030年までに600億元(約1.2兆円)の投資が予想されており、かつてない規模の巨大プロジェクトになる見込みである。

(2)プロジェクトの項目と目標

 同プロジェクト全体の項目は以下の5点であり、これらの活動により国民の健康レベルを大きく向上させ、過剰医療や有害な医療を減らし、医療費の急激な増加を抑制することを目標としている。

〇大規模コホート研究の実施:中国において発症率の高い疾患、重大なリスクを有する疾患及び相対的に有病率の高い希少疾患を切り口に、百万人以上の大型健康コホート、重大疾患コホート及び専門疾患コホートを構築する。
〇精密医療ビッグデータ統合利用と共有プラットフォームの整備:多層的な精密医療知識基盤システムと、安定的で操作可能な共有プラットフォームを作り上げる。また、精密医療の全プロセスに応用できる生物医学ビッグデータや、臨床における判断と意志決定に使用できるプラットフォームを形成する。
〇臨床用フィジオーム:臨床応用技術と生物医学ビッグデータ分析技術を開発することで、革新的な疾病早期アラート・システム、診断、治療と治療効果評価の生物マーカー、製剤の実験・分析の技術体系などにより次世代のフィジオーム(生命・生体の生理機能の総体のこと)を作り上げる。
〇予防・診療ソリューションと臨床意志決定システム:重大な疾患の分類、リスク評価、予測・早期警報、早期スクリーニング、個別化医療の治療効果と安全性予測及び監視等のため、予防・診療ソリューションと臨床意志決定システムを形成する。
〇精密医療の奨励:中国人の集団における典型的な病気への臨床的対応のデモンストレーション、応用とプロモーション・システムを建設し、治療薬物、検査、測定装置などの保険適用を推進する。

(3)研究の実施段階

 精密医療研究の実施に関し、基礎研究と臨床応用・実証研究の進行に応じて段階を設けている。

〇基礎研究
・第1段階:マルチオミックス技術開発とその統合化
・第2段階:精密医療を実現するためのコホート研究の立ち上げ
・第3段階:データセンター構築

〇臨床応用・実証研究
・第4段階:疾患治療のための精密な臨床実験計画や精密診断システム構築
・第5段階:臨床研究を通じ病態を示すバイオマーカーや疾患標的を発見
・第6段階:これら全てを統合した臨床プラットフォームの構築

(4)プロジェクトの実施状況

 同プロジェクトには、中国科学院北京ゲノム研究所、四川大学、復旦大学など、全体で20の大学・研究所・企業から160人以上の専門家が参加している。プロジェクトの現状は以下のとおりである。

①大規模コホート研究

 大規模コホート研究は、プロジェクト全体の中でも重要な位置付けになる。巨大な人口を抱え、また治安等の目的で住民の情報を把握している中国は、他国に比べ比較的容易にコホート研究に取り組むことができると思われる。現在、約2.5億元(約50億円)の拠出により、以下の「大規模自然コホート・デモンストレーション研究」と「住民コホート研究」という2つの研究が行われている。これらの研究を用いて作り上げた試料とデータをプロジェクト内で共有し、精密医療ビッグデータのプラットフォームで統一的に管理している。

・大規模自然コホート・デモンストレーション研究

 大規模コホートを作るための基準と研究フローを確立し、モデル・コホートを構築する。このモデル・コホートを長期的にフォローアップすることによって、生命活動全体のデータベースと知識基盤のフレームワーク・システムを構築する。この研究を通じて、基準の統一と情報共有を行うとともに、サンプルとデータ共有の仕組みを作り上げる。

・住民コホート研究

 住民コホート研究は、特定疾患等の特徴から選定した集団ではなく、中国全土をいくつかの区域に分けた住民に対する研究である。主な研究内容は、各区域において少なくとも10万人に上るコホートを作り、5年を超える期間でコホート研究を行うものである。その間の脱落率を10%以内に抑えるようにする。また、上記のデモンストレーション研究で得られた技術や標準化された仕様を用いて、効率的な追跡システムを作り上げる。

②中国人独自のゲノム多型地図の開

 これまでのゲノムデータや表現型の試料としては西洋のデータや試料が多く、中国やアジアの試料が少ないため、データの解釈や医療・臨床開発等で苦労していた。ハルビン工科大学の研究者らは、ゲノム研究グループ、暴露研究グループ、表現型研究グループ等によりゲノム多型、集団多型、影響等について調べ、中国人独自のゲノム多型地図を構築した。現在中国では、大量のシーケンスデータと健康や疾患等との相関性を解析できる人材や技術者自体が不足しているが、将来的には先端医療として国民の健康増進や疾病予防等への寄与が期待される。

③データセンター構築

 精密医療プロジェクトは膨大なデータを取り扱うため、データを解析し、蓄積・保管するデータセンターの構築が重要である。四川省成都市にある四川大学華西医院は、肺がん等の10種の疾病に焦点を当て、百万個のヒトゲノムのシーケンスを計画している。

④バイオマーカーの発見

 精密医療では、患者をバイオマーカーに応じ類型化し、それに応じた治療を行うことになるため、バイオマーカーの発見が重要となる。例えば、がん患者のうち特定の集団は特定の遺伝子変異を持っていたり特定の遺伝子が多く発現したりしているため、治療から利益を得る患者を特定するには、バイオマーカーを開発する必要がある。上海の民間機関である上海ジェノミクスが、200万元(約4,000万円)の助成金を得て、特発性肺線維症(IPF)を含む間質性肺疾患の新たなバイオマーカーの開発に関する研究に参画していると言われている。

4.中国系民間企業の動き

 英国のバイオインダストリー協会の市場予測によると、2015年の精密医療(個の医療)の世界市場は819億ドルだが、2020年には1457億ドル、そして2025年には2995億ドルに成長するとされる(年率30%の成長率)。このような巨大な市場に成長する可能性を秘めた精密医療に対し、中国は大きな魅力を感じている。国が先導することで企業もどんどん関連分野に進出し、しかも膨大なDNA情報等の囲い込みも行われれば、中国がヘルスケア産業で世界の覇権を握る可能性もあると考えている。

 中国政府が精密医療を国家プロジェクトとして押し出したことで、国内の民間企業も同国でのヘルスケア産業の発展性を認識し、関連の研究・技術開発や事業化に積極的に取り組み始めている。例えば、上海の大手バイオテク企業である薬明康徳(ウーシー・アップテック)社は、中国のICT大手の華為(ファーウェイ・テクノロジー)社と契約を結び、膨大な量の精密医療関連のゲノムデータの取扱いを容易にするクラウド環境を構築し、2016年3月にヘルス・クラウド・サービスを開始した。

 また、薬明康徳の子会社で米国マサチューセッツ州に拠点を置くウーシー・ネクストコード社は、シーケンスデータを利用する主要なゲノム情報企業になっており、これまでも英国の10万ゲノムプロジェクト、カタールのゲノムプロジェクト、復旦大学小児病院とボストン小児病院での小児疾患プロジェクト等に取り組んでいる。

 一方ファーウェイは現在、中国の15都市にデータセンターを置くクラウドプラットフォームにより、同国の5万人にサービスを提供している。

 この他、BGIの関連会社である碳雲知能(アイカーボンエックス)社は、遺伝情報を手掛かりとして自分の体についてより深く理解するサービスを消費者に提供を開始し、注目を集めている。さらに、血液中のマーカーを用いてがんを検出しようと試みるリキッド・バイオプシー(液体生検)等、新技術市場で優位に立つことを狙っている企業も出てきている。

5.遺伝子管理法の制定

 精密医療に関連した中国の動きとして興味深いのは、遺伝子管理法の制定である。中国は2019年7月、遺伝資源管理法を施行した。中国政府は、DNAやゲノム情報などの遺伝資源を重要と考えており、従来から政令などにより外国人による中国人の遺伝資源の取り扱いを規制していたが、今回は罰則を有する法律を新たに制定したのである。

 従来は、海外の企業や研究機関が単独で中国国内でDNAを収集・保存すること、そして海外に持ち出すことが禁止されていた。今回この法律が制定されたことにより、外国人や外国企業は中国の研究機関や企業との共同研究を行うことで、中国人のDNAを解析することが可能となった。ただし共同研究を実施する場合には、研究のプロトコルや研究結果の公表、知的財産権の分配等について、国務院の科学技術行政部門の事前審査と承認が必要とされている。また共同研究が認可された場合でも、ヒト遺伝子資源のバックアップを中国政府に提供することが要請され、さらに中国人のDNA試料やDNA情報の売買は禁止となっている。

 中国政府が自国民のDNAの保護等をこのように厳格に規制するのは、中国人の膨大な遺伝資源をベースとし、今後急速に拡大する医薬産業、先端医療産業などの育成において、海外企業を凌駕し中国企業が制覇することにねらいがある。国民の遺伝資源は国家間の競争力に影響する資源であることを、中国政府は明確に認識している。

6. 精密医療における中国の強みと課題

 中国には精密医療に関するプロジェクトを行う上で、いくつかの大きな強みがある。
 14億人余りと人口数で世界一の中国では、患者数が極めて多い。患者数が多ければ、通常の病気から希少疾患に至るまで、あらゆる種類の疾病の患者がそろう。しかも、同一民族ではないものの、アジア人という一つの類型に収まっている。それら患者のゲノムを調べることで、アジアに特有の疾患と遺伝子型・変異の関係を調べることができる。
 中国における医療費支払いシステムも、個々の患者が精密医療プロジェクトに参加するインセンティブとなる。中国でも、患者の医療費は基本的に公的保険で賄われているが、ある上限を超える高額医療の場合には自分で支払うしかなく、高額な支払いが困難となる患者も出てくる。精密医療プロジェクトに参加するのであれば、高額の医療費をプロジェクト実施者が払ってくれるため、積極的に参加する者もいると考えられる。

 一方、問題や懸念もある。
 中国では人口が多く、患者数も多い。仮に精密医療プロジェクトで成果が出たとしても、それを用いて実際に個々の患者にあった精密医療を行えるか否かは別問題である。そのためには大きな財源を必要とする。政府や保険システムが巨大な負担に耐えられるかどうかが課題となる。
 また、中国の医療システムにも課題がある。中国には病理学者が少ない。患者が出てきても、それを特定の疾患だと診断をつけることができず、見過ごされてしまう場合が多いのである。このため、それほど症例が集まらないとの指摘がある。
 医師の不足も大きい。中国では1人の医師が毎日60~70人もの患者の診察を行っており、その対応に忙殺されている。これでは、1人1人の患者にじっくり向き合って最適な医療を選択することなど、夢物語となる。
 結果として、現在中国では欧米ほど新薬の開発に成功していない。

 このように、中国の精密医療プロジェクトには長所も課題もあるが、同国では国家が率先して行動を起こせば、国民は従うという風潮が強いことから、同プロジェクトも順調に進む可能性もあるため、注視していく必要があろう。

参考資料

・D. Cyranoski (2016), “China embraces precision medicine on a massive scale”, Nature; 529, 9-10

・B. Wang “China’s $9.2 billion precision medicine initiative could see about 100 million
whole human genomes sequenced by 2030 and more if sequencing costs drop” NEXT
BIG FUTURE (2016. 6. 7)

・片山ゆき「中国の公的医療保険制度について(2018)-老いる中国、14 億人の医療保険制度はど うなっているのか 」 ニッセイ基礎研究所レポート
(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=57625&pno=2?site=nli)

・趙根明「中国における精密医療(Precision Medicine)」医療ガバナンス学会メールマガジン Vol.049(2018.3.8)(http://medg.jp/mt/?p=8184)

・宮田満「Mm の憂鬱、来月法施行、ヒト遺伝子資源保護主義に突入する中国」日経バイ
オテク ONLINE(2019.6.20)(https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/wm/column/19/06/20/00331/)

ライフサイエンス振興財団理事長 林 幸秀
ライフサイエンス振興財団嘱託研究員 佐藤真輔